大覚寺 ぶらり散歩再び

   この日(二〇一八年十一月二日)、高尾に入ったのは午前十一時頃。

   神護寺から西明寺高山寺と三尾の三つの寺を拝観した後、朝降りたバス停に戻ってきたのが二時四十五分頃。およそ四時間足らずのぶらり散歩の旅だった。

   もちろん高山寺の奥まで登ることができなかったので、三十分ほどは時間が短縮されたと考えると、高尾の三尾三寺院を拝観するのは、朝をもう少し早くしないと、一日の行程になる。

    ところが幸か不幸か、三十分が節約できたので、もしかすると、当初予定していた大覚寺で行われている六十年に一度の嵯峨天皇勅書の般若心経の公開に間に合うかもしれない、という思いに駆られた。

    バスが三時少し前に高尾を出る。四時前には大覚寺に着けるかもしれない。ただ、直通のバスがない。しかも、どうバスを乗り継げばいいのか、わからない。結論の出ないままバスが来てしまった。ともかく乗るしかない。

   乗ってからも調べたが、やはりはっきりしない。ともかく道路が集まっているところと思って物色すると、福王子神社まえの交差点がそれらしい。ここから東へ行けば、すぐに仁和寺である。

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   見切り発車で福王子でバスを降りた。時刻は三時半。四時半の受付終了まで一時間ある。そこで山越中町というところまで行っているバス見つけた。広沢池のすぐ手前である。大覚寺にはさらに近く。

   山越中町で降りた。三時四十五分。まだ大覚寺に近づくバスはありそうだったが、もう歩いてしまえとばかりに、そこから歩き始めた。

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   夕暮れの広沢池を見ながら一路大覚寺を目指すこと十五分、四時ごろに大覚寺に到着した。なんとか間に合った感じだった。

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   この日は六十年に一度、嵯峨天皇勅封の般若心経を収めている勅封心経殿が開かれているということか、式台玄関を上がり案内通りに進むと、寄り道なく五大堂へ導かれ、そのまま五大堂の裏の心経殿の前に立った。

   真新しい白木で特別に設えられた心経殿への渡り廊下を進んで、心経殿の中に入る。内部は狭い。そこに勅封心経を収めたガラスケースがあり、左に警備員、右に僧侶が一人立っいて、いよいよ狭く感じる。

「これから勅封般若心経の話をしますので、拝観された方はこちらでお待ちください」

    あと数人を待って話が始まるらしい。とはいっても、肩を付き合わせるように立っても、六、七人ほどしか入れない。

    すぐに始まらないようなので、私はとりあえずガラスケースの前に立った。

    ガラスケースを覗く。紫色の地に金色で認められた般若心経の巻物があった。これが一二〇〇年前に嵯峨天皇に書写したものなのだ。

    このとき、どうしても一二〇〇年という過ぎた時間の厚みを感じることができなかった。ただ、なるほどと思いつつ、やがて始まった僧侶の話に耳を傾けた。

    疫病退散の願いを込めて、嵯峨天皇が一字書くごとに五体投地(身を床に投げ出すようにする祈りの形)を三度繰り返して、およそ三百字の般若心経を書き上げたそうである。たいへんな作業だったことは想像がつく。

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京都産業大学京都文化学科 石川 登志雄 教授と下出 祐太郎 教授による復元-資料画像)

    じつは、実物は金文字がかなり薄くなっていて、そればかりか、見えない部分の方が多い印象だった。右手の薬師三尊に至ってはあることすらもはっきりとしない現状だ。復元を急ごうとする人がいてもおかしくはない。

    僧侶の説明によると、この勅封般若心経のご利益を求めてたびたび金文字の金を削り取っていったからということらしい。

    嵯峨天皇以後、国難の際に時の天皇が同じように勅封般若心経を書写されたそうで、後で霊宝館で拝観することができたが、それらと比較すると、嵯峨天皇のものが、他のものよりはるかに古いのだが、かなりいたんでいることはたしかだった。

    私が拝観したその数日前に、今上天皇(現在の天皇)がお見えになって拝観なさったという話もあった。なるほど天皇家のご先祖のものだから、当然のことである。だが、ニュースで報じられてはいないように思う。

    実際、お忍びのような形の拝観だったという。そういえば、天皇と仏教との関係が表立って云々されることはないなぁー

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    帰るときは五時過ぎ、すっかり夕闇に包まれた大沢池はまた違った姿を見せていた。これが夜になり、遠景に月でも出ると、それが水面に映って、幻想的な雰囲気を醸し出すだろうと思わないではいられない。

    一二〇〇年間、こうして日々の夕暮れを迎えているのかと考えると、どうも私には、勅封般若心経のように偉い人個人のありがたい営みよりも、多くの人々が作り出したこの風景の方に心が動くようだ。

    

    

高山寺 ぶらり散歩

高山寺
    西明寺をあとにして、再び清滝川河畔に沿った遊歩道に戻る。ここから高山寺までは十五分とある。少し歩くんだな、と覚悟して歩き始めると、間もなく遊歩道が大きな通りに出合う。この通りはおそらく、バスを降りたときに立ったバス通りに違いない。車がかなりのスピードで通り過ぎていく。怖い通りだ。

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    さらに歩くと、清滝川に架かる橋を渡る。バス通りが清滝川の彼岸に移ったのだ。私の歩いているバス通りはすでに愛宕山系の東端、栂尾(とがのお)山に向かっているのだ。すると、ふいに通りを離れて左手へ逸れる道に達した。みると、石段になっている登り坂である。栂尾山高山寺への表参道に違いない。時間は計らなかったが、以外に近いと感じた。

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    高山寺は創建が奈良時代に遡るともいわれる長い歴史のある古刹である。はじめは神護寺の別院として建てられた。その後は一度荒廃したそうだが、建永元年(一二〇六)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。 

    長い表参道を登りると、石垣が目の前に現れ、そこを左に曲がって迂回する。山の斜面に建てられているだけに、高い石垣がある。その上に国宝の石水院(せきすいいん)がある。ここから建物はまるで見えない。

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    石垣を左回りに迂回して元の表参道と同じ方向、つまり、山の斜面を真っ直ぐに登る道に出る。右手は石水院である。そして、正面は… 写真にあるように、9月の台風21号の爪痕である。

   倒れた木の数々が参道を塞いでとても上には登れない。上に登ることができたら、創建当初の鎌倉時代の建物は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失したとはいうものの、江戸時代に再建された金堂や明恵の肖像彫刻(国の重要文化財)を安置する開山堂などを拝観することができたので、残念だった。ボランティアだろうか、学生風の係りの人に尋ねると、山の上の方では倒木の数が数え切れないほどだという。

    今年(二〇一八年)の夏から秋にかけての台風をはじめとする豪雨は京都にある寺院の伽藍のいくつかに被害をもたらした。残念だが、仕方がない…  ともかく、これから高山寺を参詣しようという方は、お寺のHPなどで情報を得てからお参りされることをお勧めする。私ももう一度来なければならなくなってしまった。

    さて、気を取り直して、高山寺のことに戻ろう。

    高山寺は、明恵上人が三十四歳の時の建永元年(一二〇六年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された時が高山寺の始まりとされている。「日が出て、まず高き山を照らす」というのは「華厳経」の中の句である。

    日の光とは仏の説く真理のことだろう。その光がこの栂尾の山の高嶺を真っ先に照らすということのようだ。奈良の東大寺華厳宗大本山だから、大仏さまの放つ真理の光を高山寺も受けているのかもしれない。

   山入りができなかったことが、返す返すも残念だ。

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   国宝の石水院は鎌倉時代の建物である。入母屋造で、杮(こけら)葺きの屋根になっている。もともとは後鳥羽上皇に学問所として下賜された建物で、明恵上人の住まいとして使われていたという。

    鎌倉時代の代表的な住宅建築と紹介されていた。

    玄関口に傍から入ると、上り口に体を向けた善財童子いる。客を迎えるということだろう。

    善財童子といえば、華厳経のトップアイドルだ。文殊菩薩普賢菩薩に導きで、菩薩行を全うしたキャラだ。高山寺開山の明恵上人も善財童子を讃嘆している。いわば、善財童子に身を置き換えた明恵上人が客を迎えているというと言い過ぎか。ただ、目の前の善財童子の洒脱なお姿がなぜか明恵上人を連想させる。

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    明恵上人といえば、かの法然上人の「選択本願念仏集」に噛みついた人である。念仏を唱えれば、極楽浄土へ阿弥陀如来が導いてくれる、と説いた法然上人の教説に、菩提心を得ないものには極楽浄土への阿弥陀如来の救済は叶わない、と明恵上人は苦言を呈した。ところが、二人の間の交友は絶えなかったらしい。

    苦しみに沈む衆生を一人でも多く救おうとする法然上人の念仏の本当の意味を知りつつも、仏門の基本を外そうとしない、いわば、柔軟に相反する志向を心得ている明恵上人の多様さを読み取るのはやり過ぎだろうか。京都市街地の知恩院に拠点を置いた法然上人にたいして、山奥で木の幹に包まれるように只管打坐をして修行をする明恵上人像が、この絵の中ではどことなく浮き上がって見えるのも、明恵上人中での厳しさと柔軟さの共存と感じられる。

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   南に向いた座敷が二間解放されている。質素で清潔感にあふれる座敷である。襖も開け放たれてるので、広縁までも広い、気持ちのいい空間である。その広縁の先は庭を挟んで、底を清澄川が流れる深い谷になっている。この地の高さと、ここからも色づき始めた浅い秋の気配を感じることができる。

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    そして、高山寺では見逃せない鳥獣戯画図である。もちろん模写だが、高山寺秘蔵の鳥獣戯画図はこの座敷の傍のガラスケースに収められている。幅三十センチ、長さ十メートルの四巻の巻物である。ここで見ることができるのはそうほんの一部でしかない。しかし、それだけでも鳥獣戯画図の雰囲気は感じることができる。お寺のHPには、

鳥羽僧正覚猷(かくゆう、1053〜1140)の筆と伝えるが、他にも絵仏師定智、義清阿闍梨などの名前が指摘されている。いずれも確証はなく、作者未詳である。天台僧の「をこ絵」(即興的な戯画)の伝統に連なるものであろうと考えられている。」

と書かれている。

    明恵上人がこの地に居を構える少し前の成立である。この即興的な、軽妙洒脱な、現在のマンガとの繋がりまで連想させるこの絵は、明恵上人、善財童子の流れで感じた諧謔(かいぎゃく)さと繋がらないだろうか。明恵上人がこの地を自らの祈りの場に定めた理由に、この地にすでにあった軽妙な雰囲気があったのでがないかと想像する。

    鎌倉時代の代表的な住宅建築と謳っていたので、座敷を出て、縁側を歩いてぐるっと建物も周りを歩いたが、南面の座敷以外は閉鎖されていて、その詳細を目で確かめることはできなかった。

   石水院を出た。左手上の高くなったところに人影が見える。このすぐ近くに遺香庵という茶室があるはずだ。おそらくその人影は茶室と庭を見学しているに違いない。しかし、入り口がわからない。石水院の入り口は建物傍の通用口のようなところから入るのだが、戻って確かめたが、先ほどの座敷へ通じる廊下しか見当たらない。

   仕方なしに石水院を完全に出て参道に戻ると、石水院に入る手続きをした、これも仮説のテントにいた若者に聞くと、遺香庵の入り口は別で、料金も別だったのである。早速、料金を払ってチケットを買い、周囲を見ると、特に外国人観光客をはじめ、何人かの人が私と同じように迷っているようだった。もう少し分かりやすくして欲しいものだ。

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    高山寺には、境内に茶園があり、明恵上人が、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い植えたという伝承がある。今回は立ち入り禁止で見ることはできなかったが、「日本最古の茶園」の石碑が建っているらしい。

    その茶園と参道を挟んだ向かい側に、遺香庵がある。小川治兵衛という人が一九三一年というから大正時代だろうか、作庭した茶庭(遺香庵庭園)がそれである。かなりの客も迎えたらしく、八畳の広間も備わった、なかなかステキな茶室と庭だった。

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    お茶というのも興味深い。私はヨーロッパのコーヒーの広がりについて調べたことがあるが、コーヒーや紅茶、そして、お茶などは、言うまでもなく広い文化的な背景を持っている。いつかはここでも話すことになるだろうが、今日のところはとにかくお茶を飲むことにこれほどの素敵な空間を作り出したことに感心したことだけを伝えたい。

    ともかく栂尾のお茶は名高いものだったらしく、臨済宗栄西禅師は中国の南宋から持ち帰った茶の種を明恵上人が譲り受け、この地で育てたことが始まりだった。宇治のお茶も明恵上人が宇治に種を撒き、そこから他の土地に広まったそうである。鎌倉時代室町時代と武士の時代になっても武士たちは栂尾のお茶を高く評価して、栂尾のお茶を「本茶」と呼び、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだという話まで伝わっている。

   茶園を直接見たわけではないのではっきりとはいえないが、この山深い、日のあまり当たりそうもない地で、日当たりを必要とするお茶がそこまで有名になったことに、少し首を傾げた。と同時に、玉露のような甘みの強いお茶を栽培するときは、黒いシートで覆って直射日光をさけると聞いたことがある。もしかするとこの山深い栂尾のお茶はその先駆けだったのか…

 

大覚寺 ぶらり散歩

大覚寺

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   渡月橋大覚寺のために作られたと聞いたことがあるが、歩いてみると、なるほどと納得できる。
   渡月橋を渡って、嵯峨野に入る。つまり、ここはすでに大覚寺なのであろう。少し歩く。まもなく竹林がある。さらに歩くと二尊院、念佛寺、そして竹林に囲まれた瀟洒祇王寺、これらはみな大覚寺のお膝元にある寺院ということになるのだろうか。

    ここから今の大覚寺までは緩やかに登る坂道になっている。この坂の上に大覚寺はある。
   広大な山全体が大覚寺の境内なのだ。しかし、今はもうその面影はない。静かな住宅街が大覚寺に至る緩やかな傾斜地に広がっている。ただ、このダラダラの上り坂を歩いていると、大覚寺の往時の壮大さを感じずにはいられない。
   九世紀に嵯峨天皇離宮を構えた地にある大覚寺周辺は現在でも環境保護地域になっていて、電信柱も立てられないと聞いた。

    今は京都御所があり周辺は公園として人々の憩う場所となっているかつての平安京が往時の中心に対して、嵯峨野のあたりは往時は夏の避暑地だったのだろう。しかし、今は御所のはるか南の京都駅からでも、電車で十五分あまりのところに嵯峨嵐山の駅はある。今のわれわれには半日の行動圏内である。当時は行くだけで一日はかかっただろう。

    一度は御所から歩いてみないと嵯峨天皇が嵯峨野に建てた大覚寺の意味はわからないだろうと思いつつ、結局はかつての大覚寺の境内の中だけを歩いて、私たちはようやく門前に着いた。
   真っ直ぐに寺の境内に入る。しかし、正面に玄関門はなく、玄関門に行くためには直角に左へ曲がらなければならない。まるで戦国時代の城のように、侵入するものを戸惑わせるかのようである。江戸時代に整備されたという大覚寺の造りには、武士の心が見え隠れする。

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   玄関門をくぐると、式台玄関と呼ばれる建物への入り口が見える。境内の主だった建物は幾何学的に構成された回廊て繋がれている。まず入るのは宸殿である。宸殿とは門跡寺院によくあるの建物物で、「宸」は「皇帝」の意だそうである。

   広縁に出てゆっくりと歩く。右手側には白砂をしいた宸殿の前庭が見える。白砂の前庭に面した側には、宮廷式に左に橘、右に桃の立木が配されている。広縁の建物側には、大覚寺で有名な蔀戸(しとみど)が何枚も張り出している。雨戸のようなものだろうが、このように黒い漆塗りに金の金具が配されると、立派な文化財である。

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   この広縁が囲むいくつかの居室を仕切る襖には狩野山楽らがしたためた絵を見ることができる。この宸殿は徳川家から御水尾天皇に輿入れした和子の旧殿を移築したものと言われるだけに、ここでも江戸時代の宮廷生活の一端を覗き見る思いがする。

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   宸殿から鶯張りの渡り廊下をきゅうきゅう音を立てながら歩き、大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇弘法大師空海)の像を安置する御影堂で手を合わせ、境内東側に位置する大覚寺の本堂、五大堂の東側の縁に出ると、突然大沢池が眼前に広がる。なんといっても大覚寺で私の興味を最も惹きつけたものは、この大沢池である。

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   大沢池は嵯峨天皇が中国の洞庭湖を模して築造したものといわれ、平安時代前期の名残をとどめる、日本最古の庭池とされている。中秋の名月の頃には、この池に舟を浮かべて「観月の夕べ」が催されたそうである。
   大沢池を見たとき、奥州、平泉の毛越寺(もうつうじ)の庭園を連想した。双方に共通するのは、美しさと茫漠とした寄る辺なさである。

f:id:yburaritabi:20181112092001j:image岩手県西磐井郡平泉町に所在する毛越寺の庭園-資料映像)
   毛越寺の庭園も大沢池も池を中心に自然をそのまま庭に移そうとした。室町以降の池庭園の考え方に見られる、自然の、いわばミニチュアを造ろうとしているのに比べると、ある意味でのまとまりのなさを感じる。
   それは自然そのものの特徴である。われわれには自然そのものをそのままに受け止めるには、自然は大きすぎる。自然はわれわれにとって、わかっているようであり、まるでわかってもいないものである。大沢池の茫漠としつつ、雄大な佇まいは自然を前にしたわれわれの戸惑いも同時に表しているのである。これは毛越寺も含め、平安時代の浄土信仰が生んだものとされるが、浄土に対する憧れと不安がよく表れている。
   浄土信仰とは、すべての人々を浄土に招こうとする阿弥陀如来の本願に身を委ねようとするものである。仏説阿弥陀経に描かれているのはその浄土の美しい光景ばかりである。観無量寿経には、阿弥陀如来勢至菩薩観音菩薩を引き連れて、亡くなった者を浄土に導くようすが描かれているが、極めて印象的な場面である。
   親鸞阿弥陀如来の本願に身を委ねるときに必要なのは、南無阿弥陀という念仏のみだ、として浄土真宗を開いたが、それが他力本願とされる。平安時代親鸞ほどシンプルではないだろうが、浄土信仰の根本には他力本願があることに違いはない。そして、他力という限り、不安は払拭できない。
   美しい浄土への憧れには常に不安が隠れているのである。

御室仁和寺 ぶらり散歩

仁和寺

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   仁和寺はシャープな寺である。
   嵐電の御室駅に電車が止まると、改札越しに今の日常に姿を変えた参詣道が真っ直ぐに延び、その先に仁和寺の仁王門が見える。

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   この演出は素敵だ。いや、素敵などと言うと異論があるかもしれないが、今の日常の遠近法的な光景の消失点に位置する仁王門はその桃山様式の華やかさを放って、私たちの視線を昔へと誘い込む。駅を作った人にこんな意識がなかったとは考えにくい。また、宗教とはそのような演出を必要としている。
   私たちはなんの無理もなく、人を強く惹きつける仁王門の魅力に引きずられて、御室の仏の世界に入ることができる。平安時代初期、光孝天皇の死後、その意思を受けて宇多天皇が仁和四年(八八八年)に完成させ、自らの出家後、仁和寺伽藍の西南に僧坊を設けて暮らした。この僧坊が「御室」(おむろ)と呼ばれた。だから、御室仁和寺である。その「御室」もすでに消失し、現在はその場所に御殿が建っている。
   仁王門をくぐると、一気に広大な世界が広がる。門をくぐった者の視線の先に、ほぼ同じ高さに中門が待っている。仁王門と中門が一段高いところに設けられているのだ。だから、中門までの広い白砂の空間は視線の下にある。しかも、それは参詣道というにはあまりに幅広く、まるで広場のようである。しかも、仁王門から白砂の道までやや降り、それから平坦な空間が七、八十メートル続いて、中門の手前に登りの石段がある。まるで白砂の空間はすり鉢のように中窪みになっていて、その仕組みが仁王門から中門までの空間をより広く見せているように思われる。
   この日は九月とはいうものの、日差しの強い、暑い日だった。私たちは日陰のない、目の前の白砂の道をひとまず避けて、左脇の御殿に入ることにした。
   御殿の中の白書院、宸殿、黒書院などをつなぐ渡り廊下は、明治時代の再建ではあっても、桃山時代の様式をモデルにしたといわれる通り、桃山時代らしく幾何学的に複雑に構成され、まるで敵の侵入から身を守る迷路のようである。

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   その渡り廊下の合間合間に設えられた坪庭はそれぞれに魅力的ではあるが、御殿奥にある宸殿北側の庭はその白眉であろう。水路に岩に立木などの配列はもとより、それらが作り出す色彩もくっきりとしたメリハリのある、武家屋敷の伝統を絶対的に踏襲しようとする作者の、匠としての迷いのなさが生む小気味好さで観る者を最初の遭遇から驚かす。しかも、遠景には木立を足下に境内の五重の塔がすっくと頭を出している。その様は伝統の技術が狂いも迷いもなく描き出す桃山の美を代表している。

   それは寺全体にも現れている。仁和寺境内を歩くと、伽藍の配置の的確さ、明確さが手に取るようにわかる。中門をくぐると右手に五重塔、左手に観音堂が平行に置かれている。

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(行ったのは9月、もちろん御室桜は咲いていませんでした。これはイメージです)
   観音堂の手前の御室桜は九月の時期には咲いているはずもなく、残念ではあったが、その分参詣者の数もほどほどで、境内は落ち着いた雰囲気である。さらに進むと、真正面に本尊の阿弥陀如来像を収めた金堂が身構えており、右手には経堂、左手には鐘堂が、これらも平行に並び、鐘堂の奥には、浄土信仰の故か、御影堂がある。

   浄土信仰を元に建てられた寺は基本的に仏の住まう浄土を再現しようとする。仁和寺の整然とした清潔さ、美しさはまさに浄土信仰のなせる技とも言えるかもしれない。

西明寺 ぶらり散歩

   西明寺 神護寺の楼門を出て、ひたすら下りの石段を行く。

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    途中、腹が減ったので、高尾茶屋という店でうどんを食べる。門前とは言っても、山の中腹のちょっとした平地に設けられた店で ある。店の大半が野外になっている。まるで、野点の茶会のようだ。
赤い毛氈の掛かった茶席を思わせる腰掛けに大きな傘が掛けられていて、どこで食べて もいいらしい。私はその一つに一人腰掛けて、湯葉の載ったうどんを食べた。東京風の汁に 東京風のうどんに慣らされた、九州出身の私には、昔を思い出させる懐かしい味で、柚子の 香りが添えられていることに京都を感じた。
   この高尾茶屋のすぐ前に空海が硯に使ったという岩が露出している。いくらか書道の心 得のある私は、わかるかどうか、ともかく岩に手を添えた。普通の岩と比べると一際きめの 細かいその岩は、なるほど硯石にふさわしいのかもしれないと感じた。空海がこの岩を硯に して虚空に文字を書くと、文字が浮かんだ、という話が立て札に書いてあった。
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    高尾山を降りて高尾橋を渡り、再び清滝川のほとりの遊歩道を上流に向かって歩きはじ めた。すると、呆気ないほどすぐに、西明寺の案内板が見えた。清滝川に架かる、これも赤 い欄干の可愛らしい指月橋を渡る。橋を渡りきったところに受け付けがある。
もうここからが槙尾山、事実上の境内なのだ。つづら折り状の石段を一往復するとすぐに 表門である。神護寺の後では、より控えめな石段に、そして、門に見える。
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    門をくぐる。すると、そこは寺院の境内というよりも、やや広い邸宅の玄関先のようでも ある。寺伝によれば、天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟だった智泉大徳が神護 寺の別院として創建したものから始まったそうである。なるほど当初の別院という目的に 適った佇まいである。
   表門から本堂までの三、四十メートルほどの距離をあるく。植木の丈が低く、枝葉がうる さいほどに視線をさえぎる。その向こうに本堂が見え隠れする。この枝葉が紅葉なのだ。こ れらがすべて色づいたときのことを想像するだけで、西明寺が紅葉で有名なことに納得さ せられる。
    本堂に前に立った。十二世紀、建治年間に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、 経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。寺院としての形が整ったときである。そこから神護寺が 独立して正明寺となるのは十三世紀のことである。さすがに応仁の乱の兵火はこの地には 及ばなかったと見えるが、戦国時代の十六世紀に兵火により焼失し、現在の本堂は、元禄十 三年(一七◯◯年)に桂昌院の寄進により再建されたものと言われる。
    桂昌院は、言わずと知れた、五代将軍綱吉の実母である。と同時に、江戸時代の仏教の復 興に尽力した人物の一人である。彼女がいなけれは、応仁の乱で壊滅的な被害を受けた京都 の寺社仏閣の再興はありえなかったとも言える。西明寺も、応仁の乱ではないものの、戦国 の世に兵火に見舞われたとならば、桂昌院の力を必要としたのも当然である。桂昌院の影は この旅の中でまた現れることになる。
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    本堂の釈迦如来像と見えてから、渡り廊下を通って、本堂の左手に建つ客殿に移った。客殿は本堂より古く、江戸時代前期に移築されたものだという。当時は食堂と称し、僧侶の生 活の場であったそうだ。だからなのか、なにやらひどく気安い雰囲気が漂っていた。抹茶が 飲めるというので、一服お願いして、縁側で抹茶を楽しみながら、瀟洒な庭の景色を眺めた。
    ここでも丈の低い紅葉が一面にその枝葉を広げて、先ほどとは逆に、表門の姿を優しく隠 している。再び思う、紅葉が赤く色づくと、この景色は一体どうなるのだろうか。まるで、 西明寺自体が紅葉の中に埋もれてしまうに違いない。
西明寺はなるほど紅葉の寺である。

羽黒山 ぶらり散歩

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    修験道にはなにかと興味があった。仏教やキリスト教のように大きな宗教がある民族に受け入れられるためには、その民族の風族、習慣に合わせなければならない。頭ごなしに改宗させようとしても、上手くはいかない。修験道神仏習合という見方よりも、日本人が仏教を受け入れだときの日本人の心象を表しているように思う。

    今年(二〇一八年)八月、蔵王への旅行を計画していたら、急に羽黒山に行こうと思い立って宿を探した。すると、多聞館という宿を見つけた。そういえば、東大寺塔頭に多聞院というのがあったことを連想して、慌てて予約したのだが、案の定、あとで知ると、ここはかなり伝統のある宿坊であることがわかった。出羽三山羽黒山の門前で宿を営むこと三百年の宿で、建物は大正の頃からのものだという。なるほど、周囲を歩くたびにぎゅうぎゅう音のする廊下で囲まれた座敷を当てがわれた。鉱泉に浸かり、宿の精進料理を食べながら宿の主人の話を聞きながら羽黒神社のことを思い、一夜を過ごした。

f:id:yburaritabi:20181112080347j:image(この地図は出羽三山神社のHPからお借りしました)
    その前の話である。蔵王の宿を朝早く出て、山形道を北東方向に向かった。昼前には多聞館に着いた。宿の駐車場に車を置いて、私たちは羽黒山神社へ向かった。およそ一キロほどはありそうな門前の道を、両脇に立ち並ぶ宿坊の玄関を眺めつつ歩くことを数分、私たちは羽黒山神社に入る鳥居に着いた。

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   羽黒山神社は通称で、正しくは出羽三山神社という。月山、湯殿山羽黒山それぞれ三山を過去、現在、未来を象徴する阿弥陀如来観音菩薩大日如来に見立てて、山に住まう神を崇める山岳信仰の対象となっている。羽黒山にある三神合祭殿がその中心であり、出羽三山の入り口でもある。その神域への関門が随神門である。

   意外に質素な随神門をくぐると急な下りの石段が行く手に現れる。羽黒山の長い登りの石段は耳にしていたので、この下りの石段には意表を突かれた。

   底に辿り着く。振り返り見上げると、すでに随神門は見えないほどに低いところにいる。この谷の底に修行の場があった。谷の底をいくつもの祠に手を合わせつつ歩くと欄干を赤く塗れた神橋(しんばし)に差し掛かる。下を流れる祓川(はらいがわ)は、このとき台風の影響か、相当な水量だった。その先、距離にして三、四十メートルのところが切り立った崖になっていて、これも高さ二十メートルほどはありそうな滝となって水が落ちている。須賀(すが)の滝である。

   出羽三山詣の人たちはここで身を清めたそうだが、水量の多さから、このときは滝に打たれると命の危険を感じる。私たちは滝壺の傍の祠に手を合わせるだけにして、また歩を進める。

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    参詣道は樹齢350〜500年の杉の巨木に包まれている。傍にはかつての宿坊跡と紹介されている場所もある。修験者たちはこの谷底の杉木立に包まれて、山に住まう神々を追い求めたのであろう。まもなくそれらの杉の巨木の中でも一際大きな爺杉(おきなすぎ)に出会う。樹齢1000年とも言われている古木には目を奪われる。

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    爺杉を離れると、ほどなくして羽黒山五重塔が杉木立に見え隠れする。東北地方最古の五重塔の塔で、国宝に指定されている。そして塔の正面に立つ。風雨に晒されて色褪せた塔の飾り気のなさが鬱蒼とした森の中では相応しく感じられる。このとき、塔の中程まで登って塔の中の木ぐみを見ることができたが、心柱が固定されずに、塔と鎖で繋がれて宙吊りなっている仕組みと聞いた。宙吊りの心柱は初耳だったが、これは懸垂式という江戸時代に始まった代表的な工法のひとつだそうだ。
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   五重塔の塔を過ぎるころから参詣道は登り始め、いよいよ全長約2km、2446段の石段が始まる。一の坂、二の坂、三の坂と行けども行けども終わりのない石段は、修験者でもない私たちにも難行を科そうとする役行者の心根とも受け止められる。この苦行に耐えたものが三神合祭殿を前に立ち、祈りを捧げることが許される。
    私たちは苦行を克服したとばかりに、三神合祭殿に祀られた、過去、現在、未来を象徴する阿弥陀如来観音菩薩大日如来に手を合わせ、祭殿を出ると、境内に配置されている全国各地の有名な神社を模した祠一つ一つに祈りを捧げた。
    ここで知ったのだが、現在は随神門に近い、いでは文化記念館前からバスに乗って三神合祭殿にまで行けるのてある。このバスは鶴岡市から出ているらしい。六根清浄、六根清浄… 私たちもバスに乗って戻って行った。




高尾山神護寺 ぶらり散歩

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神護寺
   京都の街中を出て、嵯峨野の東側を掠めるように山へ向かってバスが進む。すべて舗装はされているが、きついカーブの箇所では離合する対向車をバスが待たなければならない。バスが対抗車線にはみだすからだ。道は狭い。そんな行程を行くこと1時間、あたりはもう山の中だ。

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   高尾は京都市街の北西、愛宕山山系に位置する。山の中に建てられた寺が神護寺である。比叡山貴船神社と、京都には山中に建てられた宗教施設がほかにもあるが、観光地としては、秋の紅葉の頃をのぞけば、地味な存在といえよう。
   バスを降りて少々途方にくれた。らしきものが見当たらず、いわば、ふつうの山中の道路しかない。バス停脇の料理屋以外、案内書の記述に見合うものがないのだ。しばらく迷ってから、ようやく仕組みがわかった。
   中を流れる清滝川が深い谷を作り、今私が立っている舗装路と谷を挟んで反対側に高尾山がそびえているのだ。神護寺はその高尾山の中腹に作られている。高尾山と並んで、清滝川の対岸に槙尾山、栂尾山が並び、それぞれの山に西明寺高山寺が設けられている。ただし、三尾三寺を直接つなぐ道はなく、次の山に向かうときには、一旦山を降りて清滝川河畔に戻り、橋を渡って此岸の道へ戻らなければならない。
    清滝川に沿った遊歩道を歩けば無理なく三山三寺を参詣できる仕組みである。ともかく、一旦は谷底まで降りなければならない。
舗装路からバス停近くの料理屋脇の石段を谷底の清滝川のほとりまで、数十メートルは下る。下り切ると目の前に欄干を朱に塗られた高尾橋が現れる。橋を渡る。渡ってから左手に行くと、小規模な旅館がある。ここで宿泊して参詣する人もいるのだろう。土産ものも売っているし、食事もできそうだ。

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   しかし、私は右手に見える石段に向かう。案内書ではここから神護寺まで徒歩二十分とある。こんな石段の坂道が延々と続くのだろうと思うと、先が不安になってきたが、実際は、石段もあるが、土の山道もあり、途中には茶屋もあって、思うほど辛い道のりではなかった。

   ただ、見上げるようなところにある楼門の前の石段は最後の関門ともいうべき難関だった。息を切らしながら楼門わきの受け付けで、拝観料五百円と、大師堂の特別拝観料六百円を払って楼門をくぐった。
目の前の神護寺の光景は信じられないものだった。この山中にこれほど広い平地があったのか、と目を疑うほどの広大な白砂を敷き詰められた空間が境内の入り口なのである。
   白砂の上をギシギシいわせながら歩き始める。右手に書院や和気清麻呂廟が並び、正面奥に五山堂、毘沙門堂が見える。五大明王や、とくに毘沙門天を祭るという形は、仏教初期の山岳信仰の名残であろうか。

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   神護寺は、和気氏の私寺であった「神願寺」と、和気氏とゆかりはあっても最澄が法華会を行ったり、空海が帰朝後一時期居を構えていたとされる「高雄山寺」という二つの寺院が合併してできた寺である。正式には「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称するが、寺に残る史料でも「神護寺」とあることから、「神護寺」と称して問題はないようだ。
    空海は二十歳の時にここで得度をしたともいわれ、また、早すぎた帰朝のため入京を禁じられていた空海最澄の取り成しもあってこの地に一時期住み、多くの僧侶に灌頂を行ったとも言われ、空海ゆかりの寺としても名高い。
    空海といえば、入唐時に伝法灌頂を受けて正統な僧侶となりつつも、若い頃から山林修行を行い、高野山をも修行の場とした、どことなく役行者流の山岳信仰の臭いが感じられる、未分化な宗教家であったという印象がある。神護寺の五山堂や毘沙門堂もそのような空海を連想させる。
   私はそんなことを考えながら、大師堂にはいって、特別公開の板彫弘法大師像を拝観した。大師堂は空海が住んでいた納涼房が前進である現在の大師堂の本尊として祀られている。正安四年(一三〇二)、仏師定喜に土佐国金剛頂寺空海像を模刻させ同院に安置されそうだ。空海像は高さ一、五メートルほどで、厚さ三十センチほどの板に彫られたレリーフである。右手の三鈷杵や左手の数珠を持つ空海像は地蔵様のように、威厳というよりも素朴な親しみやすさを感じさせる。
   さて、大師堂を出て左手を見ると、毘沙門堂、五山堂を右手に広く一面に敷き詰められた白砂の先に金堂へ登る広く、高い石段があり、その階段の上に金堂の甍ばかりが見える。石段を登る。石段を登ったら、一度振り返ることをお勧めする。眼下に五大堂と毘沙門堂の甍が互いに触れ合うように連なる光景は伽藍の厳かな佇まいに穏やかな感動を感じる。

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   金堂の本尊は木造の薬師如来立像である。この像は神護寺が荒れ寺になったときも、ずっととここにあったと聞いた。そのせいかどうかはわからないが、須弥壇の奥の方の暗いところからこちらが見られているような印象があった。あるいは、その暗さの中へ吸い込まれていくような気分でもあった。
    須弥壇にある仏像は私にとって、美の対象ではなく、信仰の対象なのである。信仰というとおこがましい。信仰ではなく、私の無言による話し相手なのでる。神護寺の本尊の薬師如来様は、俯き加減に目を細めた、微動だにしない、静かな表情は私の心をすべて吸い込んでしまいそうな落ち着きにあふれていた。その美術史的な評価などするべくもなく、しばらく薬師様と無言の会話をした後、お堂を出ようととしたら、傍にかの有名な源頼朝肖像画の模写があった。
   一度荒廃した神護寺を再興した文覚上人は源頼朝の力を借りた。そのことをこの肖像画は物語っているのだろうが、あまりにあっさりと置いてあることに、少々違和感を感じつつ、金堂を後にした。
本堂の出て右手の方へ逸れてちょっとした山道を歩くと、かわらけ投げの場所に着く。高尾山の東側斜面になるのだろうか、西側の参詣道とは趣きを異にする急峻な崖の底深くを清滝川が流れているらしい。川面はまるで見ることができない。

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   その発祥の地と言われるこの場所で、かわらけ投げをやってみた。愛宕山にもあるらしいかわらけ投げには的があるそうだが、ここにはなにも目標がない。清滝川の川面に向かって投げるのだが、届くはずもない。ともかく思い切り投げてみたら、肩が痛かった。目標があれば力をコントロールしやすかったのだろうが、祈りにも似て、私が投げたかわらけは谷底てとすいこまれていった。
   帰るときにまた目にした白砂を敷き詰めた境内入り口の広い空間に改めて目を奪われる。今度はその先に楼門がすっくと立っている。その光景は神護寺の白眉とも受け止められる。おそらく山の中にしては不思議なほどのこの広い平地が、ここに神護寺を作らせた要因であったことを想像させる。

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   去りがたく思った私は、今度は左手にある和気清麻呂廟を見て、その傍にある石段を登り、
さらに森を抜けて、和気清麻呂の墓標の前に立った。日本を救ったと、明治以降英雄視された和気清麻呂の記憶を呼び起こしながら、少なからず興味ある道鏡称徳天皇とのことを思った。