高尾山神護寺 ぶらり散歩

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神護寺
   京都の街中を出て、嵯峨野の東側を掠めるように山へ向かってバスが進む。すべて舗装はされているが、きついカーブの箇所では離合する対向車をバスが待たなければならない。バスが対抗車線にはみだすからだ。道は狭い。そんな行程を行くこと1時間、あたりはもう山の中だ。

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   高尾は京都市街の北西、愛宕山山系に位置する。山の中に建てられた寺が神護寺である。比叡山貴船神社と、京都には山中に建てられた宗教施設がほかにもあるが、観光地としては、秋の紅葉の頃をのぞけば、地味な存在といえよう。
   バスを降りて少々途方にくれた。らしきものが見当たらず、いわば、ふつうの山中の道路しかない。バス停脇の料理屋以外、案内書の記述に見合うものがないのだ。しばらく迷ってから、ようやく仕組みがわかった。
   中を流れる清滝川が深い谷を作り、今私が立っている舗装路と谷を挟んで反対側に高尾山がそびえているのだ。神護寺はその高尾山の中腹に作られている。高尾山と並んで、清滝川の対岸に槙尾山、栂尾山が並び、それぞれの山に西明寺高山寺が設けられている。ただし、三尾三寺を直接つなぐ道はなく、次の山に向かうときには、一旦山を降りて清滝川河畔に戻り、橋を渡って此岸の道へ戻らなければならない。
    清滝川に沿った遊歩道を歩けば無理なく三山三寺を参詣できる仕組みである。ともかく、一旦は谷底まで降りなければならない。
舗装路からバス停近くの料理屋脇の石段を谷底の清滝川のほとりまで、数十メートルは下る。下り切ると目の前に欄干を朱に塗られた高尾橋が現れる。橋を渡る。渡ってから左手に行くと、小規模な旅館がある。ここで宿泊して参詣する人もいるのだろう。土産ものも売っているし、食事もできそうだ。

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   しかし、私は右手に見える石段に向かう。案内書ではここから神護寺まで徒歩二十分とある。こんな石段の坂道が延々と続くのだろうと思うと、先が不安になってきたが、実際は、石段もあるが、土の山道もあり、途中には茶屋もあって、思うほど辛い道のりではなかった。

   ただ、見上げるようなところにある楼門の前の石段は最後の関門ともいうべき難関だった。息を切らしながら楼門わきの受け付けで、拝観料五百円と、大師堂の特別拝観料六百円を払って楼門をくぐった。
目の前の神護寺の光景は信じられないものだった。この山中にこれほど広い平地があったのか、と目を疑うほどの広大な白砂を敷き詰められた空間が境内の入り口なのである。
   白砂の上をギシギシいわせながら歩き始める。右手に書院や和気清麻呂廟が並び、正面奥に五山堂、毘沙門堂が見える。五大明王や、とくに毘沙門天を祭るという形は、仏教初期の山岳信仰の名残であろうか。

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   神護寺は、和気氏の私寺であった「神願寺」と、和気氏とゆかりはあっても最澄が法華会を行ったり、空海が帰朝後一時期居を構えていたとされる「高雄山寺」という二つの寺院が合併してできた寺である。正式には「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称するが、寺に残る史料でも「神護寺」とあることから、「神護寺」と称して問題はないようだ。
    空海は二十歳の時にここで得度をしたともいわれ、また、早すぎた帰朝のため入京を禁じられていた空海最澄の取り成しもあってこの地に一時期住み、多くの僧侶に灌頂を行ったとも言われ、空海ゆかりの寺としても名高い。
    空海といえば、入唐時に伝法灌頂を受けて正統な僧侶となりつつも、若い頃から山林修行を行い、高野山をも修行の場とした、どことなく役行者流の山岳信仰の臭いが感じられる、未分化な宗教家であったという印象がある。神護寺の五山堂や毘沙門堂もそのような空海を連想させる。
   私はそんなことを考えながら、大師堂にはいって、特別公開の板彫弘法大師像を拝観した。大師堂は空海が住んでいた納涼房が前進である現在の大師堂の本尊として祀られている。正安四年(一三〇二)、仏師定喜に土佐国金剛頂寺空海像を模刻させ同院に安置されそうだ。空海像は高さ一、五メートルほどで、厚さ三十センチほどの板に彫られたレリーフである。右手の三鈷杵や左手の数珠を持つ空海像は地蔵様のように、威厳というよりも素朴な親しみやすさを感じさせる。
   さて、大師堂を出て左手を見ると、毘沙門堂、五山堂を右手に広く一面に敷き詰められた白砂の先に金堂へ登る広く、高い石段があり、その階段の上に金堂の甍ばかりが見える。石段を登る。石段を登ったら、一度振り返ることをお勧めする。眼下に五大堂と毘沙門堂の甍が互いに触れ合うように連なる光景は伽藍の厳かな佇まいに穏やかな感動を感じる。

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   金堂の本尊は木造の薬師如来立像である。この像は神護寺が荒れ寺になったときも、ずっととここにあったと聞いた。そのせいかどうかはわからないが、須弥壇の奥の方の暗いところからこちらが見られているような印象があった。あるいは、その暗さの中へ吸い込まれていくような気分でもあった。
    須弥壇にある仏像は私にとって、美の対象ではなく、信仰の対象なのである。信仰というとおこがましい。信仰ではなく、私の無言による話し相手なのでる。神護寺の本尊の薬師如来様は、俯き加減に目を細めた、微動だにしない、静かな表情は私の心をすべて吸い込んでしまいそうな落ち着きにあふれていた。その美術史的な評価などするべくもなく、しばらく薬師様と無言の会話をした後、お堂を出ようととしたら、傍にかの有名な源頼朝肖像画の模写があった。
   一度荒廃した神護寺を再興した文覚上人は源頼朝の力を借りた。そのことをこの肖像画は物語っているのだろうが、あまりにあっさりと置いてあることに、少々違和感を感じつつ、金堂を後にした。
本堂の出て右手の方へ逸れてちょっとした山道を歩くと、かわらけ投げの場所に着く。高尾山の東側斜面になるのだろうか、西側の参詣道とは趣きを異にする急峻な崖の底深くを清滝川が流れているらしい。川面はまるで見ることができない。

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   その発祥の地と言われるこの場所で、かわらけ投げをやってみた。愛宕山にもあるらしいかわらけ投げには的があるそうだが、ここにはなにも目標がない。清滝川の川面に向かって投げるのだが、届くはずもない。ともかく思い切り投げてみたら、肩が痛かった。目標があれば力をコントロールしやすかったのだろうが、祈りにも似て、私が投げたかわらけは谷底てとすいこまれていった。
   帰るときにまた目にした白砂を敷き詰めた境内入り口の広い空間に改めて目を奪われる。今度はその先に楼門がすっくと立っている。その光景は神護寺の白眉とも受け止められる。おそらく山の中にしては不思議なほどのこの広い平地が、ここに神護寺を作らせた要因であったことを想像させる。

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   去りがたく思った私は、今度は左手にある和気清麻呂廟を見て、その傍にある石段を登り、
さらに森を抜けて、和気清麻呂の墓標の前に立った。日本を救ったと、明治以降英雄視された和気清麻呂の記憶を呼び起こしながら、少なからず興味ある道鏡称徳天皇とのことを思った。