西明寺 ぶらり散歩

   西明寺 神護寺の楼門を出て、ひたすら下りの石段を行く。

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    途中、腹が減ったので、高尾茶屋という店でうどんを食べる。門前とは言っても、山の中腹のちょっとした平地に設けられた店で ある。店の大半が野外になっている。まるで、野点の茶会のようだ。
赤い毛氈の掛かった茶席を思わせる腰掛けに大きな傘が掛けられていて、どこで食べて もいいらしい。私はその一つに一人腰掛けて、湯葉の載ったうどんを食べた。東京風の汁に 東京風のうどんに慣らされた、九州出身の私には、昔を思い出させる懐かしい味で、柚子の 香りが添えられていることに京都を感じた。
   この高尾茶屋のすぐ前に空海が硯に使ったという岩が露出している。いくらか書道の心 得のある私は、わかるかどうか、ともかく岩に手を添えた。普通の岩と比べると一際きめの 細かいその岩は、なるほど硯石にふさわしいのかもしれないと感じた。空海がこの岩を硯に して虚空に文字を書くと、文字が浮かんだ、という話が立て札に書いてあった。
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    高尾山を降りて高尾橋を渡り、再び清滝川のほとりの遊歩道を上流に向かって歩きはじ めた。すると、呆気ないほどすぐに、西明寺の案内板が見えた。清滝川に架かる、これも赤 い欄干の可愛らしい指月橋を渡る。橋を渡りきったところに受け付けがある。
もうここからが槙尾山、事実上の境内なのだ。つづら折り状の石段を一往復するとすぐに 表門である。神護寺の後では、より控えめな石段に、そして、門に見える。
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    門をくぐる。すると、そこは寺院の境内というよりも、やや広い邸宅の玄関先のようでも ある。寺伝によれば、天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟だった智泉大徳が神護 寺の別院として創建したものから始まったそうである。なるほど当初の別院という目的に 適った佇まいである。
   表門から本堂までの三、四十メートルほどの距離をあるく。植木の丈が低く、枝葉がうる さいほどに視線をさえぎる。その向こうに本堂が見え隠れする。この枝葉が紅葉なのだ。こ れらがすべて色づいたときのことを想像するだけで、西明寺が紅葉で有名なことに納得さ せられる。
    本堂に前に立った。十二世紀、建治年間に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、 経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。寺院としての形が整ったときである。そこから神護寺が 独立して正明寺となるのは十三世紀のことである。さすがに応仁の乱の兵火はこの地には 及ばなかったと見えるが、戦国時代の十六世紀に兵火により焼失し、現在の本堂は、元禄十 三年(一七◯◯年)に桂昌院の寄進により再建されたものと言われる。
    桂昌院は、言わずと知れた、五代将軍綱吉の実母である。と同時に、江戸時代の仏教の復 興に尽力した人物の一人である。彼女がいなけれは、応仁の乱で壊滅的な被害を受けた京都 の寺社仏閣の再興はありえなかったとも言える。西明寺も、応仁の乱ではないものの、戦国 の世に兵火に見舞われたとならば、桂昌院の力を必要としたのも当然である。桂昌院の影は この旅の中でまた現れることになる。
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    本堂の釈迦如来像と見えてから、渡り廊下を通って、本堂の左手に建つ客殿に移った。客殿は本堂より古く、江戸時代前期に移築されたものだという。当時は食堂と称し、僧侶の生 活の場であったそうだ。だからなのか、なにやらひどく気安い雰囲気が漂っていた。抹茶が 飲めるというので、一服お願いして、縁側で抹茶を楽しみながら、瀟洒な庭の景色を眺めた。
    ここでも丈の低い紅葉が一面にその枝葉を広げて、先ほどとは逆に、表門の姿を優しく隠 している。再び思う、紅葉が赤く色づくと、この景色は一体どうなるのだろうか。まるで、 西明寺自体が紅葉の中に埋もれてしまうに違いない。
西明寺はなるほど紅葉の寺である。