大覚寺 ぶらり散歩

大覚寺

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   渡月橋大覚寺のために作られたと聞いたことがあるが、歩いてみると、なるほどと納得できる。
   渡月橋を渡って、嵯峨野に入る。つまり、ここはすでに大覚寺なのであろう。少し歩く。まもなく竹林がある。さらに歩くと二尊院、念佛寺、そして竹林に囲まれた瀟洒祇王寺、これらはみな大覚寺のお膝元にある寺院ということになるのだろうか。

    ここから今の大覚寺までは緩やかに登る坂道になっている。この坂の上に大覚寺はある。
   広大な山全体が大覚寺の境内なのだ。しかし、今はもうその面影はない。静かな住宅街が大覚寺に至る緩やかな傾斜地に広がっている。ただ、このダラダラの上り坂を歩いていると、大覚寺の往時の壮大さを感じずにはいられない。
   九世紀に嵯峨天皇離宮を構えた地にある大覚寺周辺は現在でも環境保護地域になっていて、電信柱も立てられないと聞いた。

    今は京都御所があり周辺は公園として人々の憩う場所となっているかつての平安京が往時の中心に対して、嵯峨野のあたりは往時は夏の避暑地だったのだろう。しかし、今は御所のはるか南の京都駅からでも、電車で十五分あまりのところに嵯峨嵐山の駅はある。今のわれわれには半日の行動圏内である。当時は行くだけで一日はかかっただろう。

    一度は御所から歩いてみないと嵯峨天皇が嵯峨野に建てた大覚寺の意味はわからないだろうと思いつつ、結局はかつての大覚寺の境内の中だけを歩いて、私たちはようやく門前に着いた。
   真っ直ぐに寺の境内に入る。しかし、正面に玄関門はなく、玄関門に行くためには直角に左へ曲がらなければならない。まるで戦国時代の城のように、侵入するものを戸惑わせるかのようである。江戸時代に整備されたという大覚寺の造りには、武士の心が見え隠れする。

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   玄関門をくぐると、式台玄関と呼ばれる建物への入り口が見える。境内の主だった建物は幾何学的に構成された回廊て繋がれている。まず入るのは宸殿である。宸殿とは門跡寺院によくあるの建物物で、「宸」は「皇帝」の意だそうである。

   広縁に出てゆっくりと歩く。右手側には白砂をしいた宸殿の前庭が見える。白砂の前庭に面した側には、宮廷式に左に橘、右に桃の立木が配されている。広縁の建物側には、大覚寺で有名な蔀戸(しとみど)が何枚も張り出している。雨戸のようなものだろうが、このように黒い漆塗りに金の金具が配されると、立派な文化財である。

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   この広縁が囲むいくつかの居室を仕切る襖には狩野山楽らがしたためた絵を見ることができる。この宸殿は徳川家から御水尾天皇に輿入れした和子の旧殿を移築したものと言われるだけに、ここでも江戸時代の宮廷生活の一端を覗き見る思いがする。

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   宸殿から鶯張りの渡り廊下をきゅうきゅう音を立てながら歩き、大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇弘法大師空海)の像を安置する御影堂で手を合わせ、境内東側に位置する大覚寺の本堂、五大堂の東側の縁に出ると、突然大沢池が眼前に広がる。なんといっても大覚寺で私の興味を最も惹きつけたものは、この大沢池である。

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   大沢池は嵯峨天皇が中国の洞庭湖を模して築造したものといわれ、平安時代前期の名残をとどめる、日本最古の庭池とされている。中秋の名月の頃には、この池に舟を浮かべて「観月の夕べ」が催されたそうである。
   大沢池を見たとき、奥州、平泉の毛越寺(もうつうじ)の庭園を連想した。双方に共通するのは、美しさと茫漠とした寄る辺なさである。

f:id:yburaritabi:20181112092001j:image岩手県西磐井郡平泉町に所在する毛越寺の庭園-資料映像)
   毛越寺の庭園も大沢池も池を中心に自然をそのまま庭に移そうとした。室町以降の池庭園の考え方に見られる、自然の、いわばミニチュアを造ろうとしているのに比べると、ある意味でのまとまりのなさを感じる。
   それは自然そのものの特徴である。われわれには自然そのものをそのままに受け止めるには、自然は大きすぎる。自然はわれわれにとって、わかっているようであり、まるでわかってもいないものである。大沢池の茫漠としつつ、雄大な佇まいは自然を前にしたわれわれの戸惑いも同時に表しているのである。これは毛越寺も含め、平安時代の浄土信仰が生んだものとされるが、浄土に対する憧れと不安がよく表れている。
   浄土信仰とは、すべての人々を浄土に招こうとする阿弥陀如来の本願に身を委ねようとするものである。仏説阿弥陀経に描かれているのはその浄土の美しい光景ばかりである。観無量寿経には、阿弥陀如来勢至菩薩観音菩薩を引き連れて、亡くなった者を浄土に導くようすが描かれているが、極めて印象的な場面である。
   親鸞阿弥陀如来の本願に身を委ねるときに必要なのは、南無阿弥陀という念仏のみだ、として浄土真宗を開いたが、それが他力本願とされる。平安時代親鸞ほどシンプルではないだろうが、浄土信仰の根本には他力本願があることに違いはない。そして、他力という限り、不安は払拭できない。
   美しい浄土への憧れには常に不安が隠れているのである。