高山寺 ぶらり散歩

高山寺
    西明寺をあとにして、再び清滝川河畔に沿った遊歩道に戻る。ここから高山寺までは十五分とある。少し歩くんだな、と覚悟して歩き始めると、間もなく遊歩道が大きな通りに出合う。この通りはおそらく、バスを降りたときに立ったバス通りに違いない。車がかなりのスピードで通り過ぎていく。怖い通りだ。

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    さらに歩くと、清滝川に架かる橋を渡る。バス通りが清滝川の彼岸に移ったのだ。私の歩いているバス通りはすでに愛宕山系の東端、栂尾(とがのお)山に向かっているのだ。すると、ふいに通りを離れて左手へ逸れる道に達した。みると、石段になっている登り坂である。栂尾山高山寺への表参道に違いない。時間は計らなかったが、以外に近いと感じた。

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    高山寺は創建が奈良時代に遡るともいわれる長い歴史のある古刹である。はじめは神護寺の別院として建てられた。その後は一度荒廃したそうだが、建永元年(一二〇六)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。 

    長い表参道を登りると、石垣が目の前に現れ、そこを左に曲がって迂回する。山の斜面に建てられているだけに、高い石垣がある。その上に国宝の石水院(せきすいいん)がある。ここから建物はまるで見えない。

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    石垣を左回りに迂回して元の表参道と同じ方向、つまり、山の斜面を真っ直ぐに登る道に出る。右手は石水院である。そして、正面は… 写真にあるように、9月の台風21号の爪痕である。

   倒れた木の数々が参道を塞いでとても上には登れない。上に登ることができたら、創建当初の鎌倉時代の建物は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失したとはいうものの、江戸時代に再建された金堂や明恵の肖像彫刻(国の重要文化財)を安置する開山堂などを拝観することができたので、残念だった。ボランティアだろうか、学生風の係りの人に尋ねると、山の上の方では倒木の数が数え切れないほどだという。

    今年(二〇一八年)の夏から秋にかけての台風をはじめとする豪雨は京都にある寺院の伽藍のいくつかに被害をもたらした。残念だが、仕方がない…  ともかく、これから高山寺を参詣しようという方は、お寺のHPなどで情報を得てからお参りされることをお勧めする。私ももう一度来なければならなくなってしまった。

    さて、気を取り直して、高山寺のことに戻ろう。

    高山寺は、明恵上人が三十四歳の時の建永元年(一二〇六年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された時が高山寺の始まりとされている。「日が出て、まず高き山を照らす」というのは「華厳経」の中の句である。

    日の光とは仏の説く真理のことだろう。その光がこの栂尾の山の高嶺を真っ先に照らすということのようだ。奈良の東大寺華厳宗大本山だから、大仏さまの放つ真理の光を高山寺も受けているのかもしれない。

   山入りができなかったことが、返す返すも残念だ。

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   国宝の石水院は鎌倉時代の建物である。入母屋造で、杮(こけら)葺きの屋根になっている。もともとは後鳥羽上皇に学問所として下賜された建物で、明恵上人の住まいとして使われていたという。

    鎌倉時代の代表的な住宅建築と紹介されていた。

    玄関口に傍から入ると、上り口に体を向けた善財童子いる。客を迎えるということだろう。

    善財童子といえば、華厳経のトップアイドルだ。文殊菩薩普賢菩薩に導きで、菩薩行を全うしたキャラだ。高山寺開山の明恵上人も善財童子を讃嘆している。いわば、善財童子に身を置き換えた明恵上人が客を迎えているというと言い過ぎか。ただ、目の前の善財童子の洒脱なお姿がなぜか明恵上人を連想させる。

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    明恵上人といえば、かの法然上人の「選択本願念仏集」に噛みついた人である。念仏を唱えれば、極楽浄土へ阿弥陀如来が導いてくれる、と説いた法然上人の教説に、菩提心を得ないものには極楽浄土への阿弥陀如来の救済は叶わない、と明恵上人は苦言を呈した。ところが、二人の間の交友は絶えなかったらしい。

    苦しみに沈む衆生を一人でも多く救おうとする法然上人の念仏の本当の意味を知りつつも、仏門の基本を外そうとしない、いわば、柔軟に相反する志向を心得ている明恵上人の多様さを読み取るのはやり過ぎだろうか。京都市街地の知恩院に拠点を置いた法然上人にたいして、山奥で木の幹に包まれるように只管打坐をして修行をする明恵上人像が、この絵の中ではどことなく浮き上がって見えるのも、明恵上人中での厳しさと柔軟さの共存と感じられる。

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   南に向いた座敷が二間解放されている。質素で清潔感にあふれる座敷である。襖も開け放たれてるので、広縁までも広い、気持ちのいい空間である。その広縁の先は庭を挟んで、底を清澄川が流れる深い谷になっている。この地の高さと、ここからも色づき始めた浅い秋の気配を感じることができる。

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    そして、高山寺では見逃せない鳥獣戯画図である。もちろん模写だが、高山寺秘蔵の鳥獣戯画図はこの座敷の傍のガラスケースに収められている。幅三十センチ、長さ十メートルの四巻の巻物である。ここで見ることができるのはそうほんの一部でしかない。しかし、それだけでも鳥獣戯画図の雰囲気は感じることができる。お寺のHPには、

鳥羽僧正覚猷(かくゆう、1053〜1140)の筆と伝えるが、他にも絵仏師定智、義清阿闍梨などの名前が指摘されている。いずれも確証はなく、作者未詳である。天台僧の「をこ絵」(即興的な戯画)の伝統に連なるものであろうと考えられている。」

と書かれている。

    明恵上人がこの地に居を構える少し前の成立である。この即興的な、軽妙洒脱な、現在のマンガとの繋がりまで連想させるこの絵は、明恵上人、善財童子の流れで感じた諧謔(かいぎゃく)さと繋がらないだろうか。明恵上人がこの地を自らの祈りの場に定めた理由に、この地にすでにあった軽妙な雰囲気があったのでがないかと想像する。

    鎌倉時代の代表的な住宅建築と謳っていたので、座敷を出て、縁側を歩いてぐるっと建物も周りを歩いたが、南面の座敷以外は閉鎖されていて、その詳細を目で確かめることはできなかった。

   石水院を出た。左手上の高くなったところに人影が見える。このすぐ近くに遺香庵という茶室があるはずだ。おそらくその人影は茶室と庭を見学しているに違いない。しかし、入り口がわからない。石水院の入り口は建物傍の通用口のようなところから入るのだが、戻って確かめたが、先ほどの座敷へ通じる廊下しか見当たらない。

   仕方なしに石水院を完全に出て参道に戻ると、石水院に入る手続きをした、これも仮説のテントにいた若者に聞くと、遺香庵の入り口は別で、料金も別だったのである。早速、料金を払ってチケットを買い、周囲を見ると、特に外国人観光客をはじめ、何人かの人が私と同じように迷っているようだった。もう少し分かりやすくして欲しいものだ。

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    高山寺には、境内に茶園があり、明恵上人が、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い植えたという伝承がある。今回は立ち入り禁止で見ることはできなかったが、「日本最古の茶園」の石碑が建っているらしい。

    その茶園と参道を挟んだ向かい側に、遺香庵がある。小川治兵衛という人が一九三一年というから大正時代だろうか、作庭した茶庭(遺香庵庭園)がそれである。かなりの客も迎えたらしく、八畳の広間も備わった、なかなかステキな茶室と庭だった。

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    お茶というのも興味深い。私はヨーロッパのコーヒーの広がりについて調べたことがあるが、コーヒーや紅茶、そして、お茶などは、言うまでもなく広い文化的な背景を持っている。いつかはここでも話すことになるだろうが、今日のところはとにかくお茶を飲むことにこれほどの素敵な空間を作り出したことに感心したことだけを伝えたい。

    ともかく栂尾のお茶は名高いものだったらしく、臨済宗栄西禅師は中国の南宋から持ち帰った茶の種を明恵上人が譲り受け、この地で育てたことが始まりだった。宇治のお茶も明恵上人が宇治に種を撒き、そこから他の土地に広まったそうである。鎌倉時代室町時代と武士の時代になっても武士たちは栂尾のお茶を高く評価して、栂尾のお茶を「本茶」と呼び、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだという話まで伝わっている。

   茶園を直接見たわけではないのではっきりとはいえないが、この山深い、日のあまり当たりそうもない地で、日当たりを必要とするお茶がそこまで有名になったことに、少し首を傾げた。と同時に、玉露のような甘みの強いお茶を栽培するときは、黒いシートで覆って直射日光をさけると聞いたことがある。もしかするとこの山深い栂尾のお茶はその先駆けだったのか…