清凉寺 ぶらり

   今回は嵯峨野から嵐山をまわるコースの最初のお寺、清凉寺をことを話します。

   京都でもメジャーな観光コースです。

   清凉寺の最寄り駅、JR嵯峨嵐山駅からの出発します。

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    大まかに言うと、嵯峨嵐山駅を出て、大通りを左手へ進むと嵐山、大通りを渡って真っ直ぐに行くと大覚寺に行きます。

    清凉寺大覚寺と嵐山の中間にあります。

    それほど長い距離ではないので、嵯峨嵐山駅から清凉寺まで歩くことにしました。

 

    清凉寺は「源氏物語」と関係が深いんです。

    現在、嵯峨釈迦堂清凉寺のあるところには、もともと嵯峨天皇の皇子で、のちに源氏の姓を受けて皇籍をはなれた源融(みなもとのとおる)の別荘があったところです。

    源融左大臣にまで出世した人物。

    百人一首河原左大臣の歌があります。

「みちのくの忍もじすりたれゆえに 乱れそめにし我ならなくに」

陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。私のせいではないのにーあなたのせいですよ)

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    源融がその河原左大臣なのです。

    宇治の平等院ももともとは源融の別荘あとに建てられたものだそうで、なかなかのセレブだったようです。

    この源融光源氏のモデルだそうです。

    そういえば光源氏も皇子として生まれ、皇籍を離れるときに「源氏」の姓を授かったのでした。

   「源」姓って、興味をそそられますよね。

   ともかく清凉寺に着きましたが、正面の仁王門から入るつもりが、着いた場所は駐車場でした。

f:id:yburaritabi:20181117083817j:imageこれは清凉寺を出てから、振り返って撮ったもの

     結局、駐車場を横切って寺の傍から入ることにしました。

     歩き始めるとすぐに経蔵がありました。

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   この八角のデカイ箱が輪蔵(りんぞう)というそうです。

   これを一回回転させて、経典全巻読了、というわけです。

やってみましたー

   動き始めるまでは重いのですが、動き始めると意外に軽いんです。

   今度は止めるのにちょっとだけ、汗💦

   とろがよく説明を読むと、

   読んだのと同じ御利益(ごりやく)が得られる、と書いてありました。

    全巻読了じゃないんだーそりゃそうですよね‼️

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   さて、本堂だ。まっすぐ本堂の釈迦堂に向かいます。

   案外と庶民的な雰囲気の境内です。

   観光客もちらほら、散歩中の近所の人らしき人もいます。

   創建当初、嵯峨野は市中から離れたところだったのでしょうが、今は結構な住宅街。

   住宅街のど真ん中にあるお寺に変わったからなのでしょうか。

 

   本堂へ上がります。

   本尊は釈迦如来立像です。

   お釈迦様の等身大だそうです。

   説明書を読むことにしましょう。

昔、奝然(ちょうねん 九三八-一〇一六)という東大寺出身の僧がいました。

彼が宋へ渡航中の九八五年のこと。

古代インドから伝わった、お釈迦様の在世中の姿を映した栴檀の木で造らせたという由緒を持つ「霊像」を見て感激したそうです。

早速、仏師に「霊像」を模して釈迦如来像を作らせました。

 

「生きているお釈迦様」

 

お釈迦様に生き写しに仕上がったそうです。

江戸時代には、この釈迦如来立像で各地で出開帳を行なって、寄進を募ったという話も聞きました。

さて、奝然は、日本に帰国後、この釈迦如来立像(「清凉寺様式」)を本尊に、愛宕山麓、高尾山を拠点にした一大宗教施設の創設を考えました。

これが清凉寺になるはずだったのです。

どうやら相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとしたようです。

なかなかの野心家ですね。

ところが、その願いは叶わないまま、長和五年(一〇一六年)に奝然は亡くなりました。

そこで、弟子の盛算(じょうさん)が師の遺志をうけて、現在の地、棲霞寺の境内に建立したのが清凉寺です。

    前にも書きましたが、須弥壇に祀られた仏像を私は、なかなか美術的に見れないのです。

    祈る対象なのです。

    このときは釈迦如来立像のすぐそばまで行ったのですが、今、そのお姿が思い出せないのです。

    ただただ須弥壇まえに跪き、手を合わせました。

 

    須弥壇の真後ろに扉があります。

   ここが、別料金だが、庭園への入り口です。

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    人影かないー     静かー    落ち着きー    

    中之島に弁天堂があり、まわりは池遊式庭園。

    ところどころに色づく紅葉、

なかなかいい庭でした。

    さらに奥には方丈の枯山水の庭園。

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    派手さのない、こじんまりとした庭。

こんな庭を見ながら、気の合う人とゆっくりお茶でも飲みたい気持ちになりました。

 

    本堂に戻ります。

    釈迦堂は、寛永十四年(一六三八年)の嵯峨大火で消失。木造建造物の宿命だね。

    ここに桂昌院が登場。

    徳川五代将軍綱吉の生母は堂宇の再建を発願、元禄十四年(一七〇一)年に上棟。

    釈迦堂の須弥壇の傍に桂昌院が愛用した道具が展示されています。

    顔を洗った桶、手拭いをかける小さな衣桁のようなもの、などなど。

    見たところなかなか手の込んだ作りの物のようです。

    桂昌院というと、私はすべてが小作りの、品のいいおばあちゃんを勝手に想像してしまいます。

    この旅では、西明寺に続いて二度目の登場ですだ。

    これからも何度でもお会いしたいものです。

 

阿弥陀堂

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   現在阿弥陀堂の建っている場所には、もともと、嵯峨天皇の皇子、左大臣源融、つまり、「光源氏」の別荘である栖霞観(せいかかん)がありました。

   源融の一周忌の寛平八年(八九六年)、融の念願だった阿弥陀三尊像をここに安置して阿弥陀堂とし、棲霞寺としたのです。

   その百数十年後に釈迦如来立像がやってきたのです。

   棲霞寺と清凉寺共存の時代。

   江戸時代、清凉寺の釈迦如来立像が模写ならぬ、模刻の像ではなく、インド由来の栴檀釈迦像そのものだ、本物に違いない、と信じられるようになったそうです。

   そうか、だから出開帳まで開かれたんですね。

   こんな風に釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて、人気を集めました。

   一方、本家の棲霞寺はその後もパッとせず、そもそもは棲霞寺の方にあった釈迦堂も今はなく、阿弥陀堂(江戸時代の再建)にのみその名残りをとどめるだけとなりました。

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   しかし、もともと阿弥陀堂に安置され、今は霊宝館にある阿弥陀三尊像、これはとてもいいです。

   阿弥陀様らしい優しさが像全体からにじみ出てくるようです。

   しばらくその前を離れることができませんでした  祈り

f:id:yburaritabi:20181117083922j:image最初の仁王門とは逆で、左脇の駐車場から入って最初に出会った仁王門

   来たときは脇の駐車場からだったので、仁王門はちゃんと見ていませんでした。

   出るときに改めて見ると言うのは順序が逆ですが、仁王門、その先に見える嵐山界隈、なかなかの眺めでした。