落柿舎 ぶらり
清凉寺と嵐山はすごく近いところにあります。
清凉寺を出て参詣道を下る途中、見落としそうな、右に曲がる普通の路地が嵐山への近道です。
落柿舎➡︎ こんな標識が目印なのです。
えっ、これでいいの? と思うような住宅街を通ります。
余計なことかもしれませんが、普通の住宅地の道でさから、観光気分のテンションでは住民の皆さんには迷惑かもしれませんね。
まもなく視界がこんな風に開けます。
すると、すぐに落柿舎の建物が見えます。
落柿舎(らくししゃ)は、松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘だった建物。
茅葺きの質素な民家です。
芭蕉もなんどか訪れて、その滞在の記録を『嵯峨日記』として残しています。
今回の旅行では、高山寺の遺香庵を見学しましたが、こういう田舎家タイプの建物は好きですね。
しかも、ここは茶室と違って、かまどや流しなど、日常生活の匂いがするんです。
「元禄四年四月十八日、嵯峨を散策して去来の落柿舎に着く。凡兆が一緒だったが、夕暮れに京に帰る。私はなおしばらく滞在することになっていたので、…建物の片隅の一間を寝床とした。部屋には、机一つ、硯、李白の文集、大鏡、源氏物語、土佐日記などが置いてある。そのほか、菓子が盛られた蒔絵の器、名酒一本。夜寝る布団や副食物などは京から持ってきているので、貧しい感じではない。わが身の貧しく賤しいことを忘れて、清らかで落ち着いた気持ちを楽しむ。」
ちょっと長くなりましたが、「嵯峨日記」の冒頭の現代語抄訳です。
芭蕉が旅の話を肴に様々な客人と酒を酌み交わしたり、雑魚寝をしたり、あるいは、皆が立ち去ったあとの庵でひとり書を読んだり、ボンヤリとするー
そんな日常を知るだけに、この庵が愛おしく感じられます。
去来は、貞享二、三年(一六八五- 八六年)ころに、嵯峨野に庵を入手したそうですが、その当時の庵の正確な場所は分かっていないそうです。
現在の庵は、去来の親戚の俳人、井上重厚が一七七〇年に、弘源寺というお寺の跡地に再建したものです。
「落柿舎」という名前の由来は、去来が書いた『落柿舎ノ記』によると、
「庵の庭には40本の柿の木があり、日頃去来は人にこの庵の管理を任せていた。ある時(1689年(元禄2年)頃)、去来がちょうど在庵中に、都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文を出して買い求めたので、去来は売る約束をして代金を受け取った。しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまった。翌朝来た老商人がこの有様に呆然としつつ、代金を返してくれるよう頼み込み、去来はこれを不憫に思って柿の代金を全額返した。この老商人が帰るにあたって去来は友人あての手紙を託し、その中で自ら「落柿舎の去来」と称したという。」(wikipediaの「落柿舎」より)
柿がそっくり落ちちゃったんだー
ちょっと風情がないなぁ
などと思いながら、庭を歩いていると、一本の柿の木に一個だけ柿の実がぶら下がっていました。
柿はたしかにたわわに実って、どっと落ちる、それは去来の書いた通りだと思います。
しかし、こうしてわずかですが、落ちずに木にしがみつくように残っているものもあるんです。
どことなく憐れな思いがします。
あと二、三週間もすれば、嵯峨嵐山一帯の寺社は紅葉に包まれます。
華やかな紅葉の秋は目の前です。
しかし、この柿の実はその頃までこうして木にぶら下がってはいないと思います。
そこで一句
落柿舎や 色づく秋に 落ちる柿の実
いかがでしょうか?