化野念仏寺 ぶらり
祇王寺を後にして、この日の最後の目的地は化野念仏寺です。
立ち並ぶおよそ八千体の石仏や石塔を見ていると、なにか重いものを感じます。
「化野」と書いて「あだしの」と読むんですね。
「あだし」とは「はかない」とか、「むなしい」という意味だそうです。
なんとなく好きな響きです。
と思っていたら、吉田兼好の「徒然草」の文に「あだしの」は出てきていたんですね。
高校生の頃の記憶で、親しみを感じていたのかもしれません。
「あだし野の露消ゆるときなく、‥世はさだめなきこそ、いみじけれ」
吉田兼好は、化野を世の無常に例えていました。
この化野という場所は昔から亡くなった人を弔う場所でした。
京都には、ほかに鳥辺野と蓮台野と風葬の地がありますが、「…野」という地名がそれを表しているそうです。
でも、兼好はそんな場所を忌み嫌うのではなく、「いみじけれ」、つまり、素晴らしいと感嘆しています。
お墓なんて、なんとなく怖い、という思いがする人もいるでしょうが、兼好のように当時の人にとって、死の世界は身近だったということではないでしょうか。
実際はどうなのでしょう⁉️
さて、化野念仏寺へ向けて歩きましょう‼️
(お寺のHPからの画像です)
祇王寺を出て、一旦、小倉山裾野周回道(私が勝手に名付けました)に戻ります。
そして、周回道に出たら北方向に化野を目指します。
緩い上り坂、古の人々は亡くなった身内の遺体を担いで、この道を歩いたのかー
この地はよほど人里離れた場所だったのでしょう。
今、そんな面影は、通りを歩く限り見当たりません。
見所チェック‼️
この辺りは今は嵯峨鳥居本(さがとりいもと)と言われ、「化野」はその古い地名なのです。
嵯峨鳥居本にはこんな街並みが続いています。
この町並みはこの先にある愛宕神社の鳥居前町として発展したもので、瓦屋根の町家風民家や茅葺きの農家が軒を連ねている国指定の保存地区なんです。
この辺りから愛宕神社辺りまでの街並みも、保存館もあるそうなので、じっくり見てみたいのですが、今回は時間的にちょっと無理そうです。
またの機会にー
と思っていると、不意に左手、つまり、山の方へ逸れる、石段に出くわしました。
化野念仏寺の参道です。
大人500円/中学、高校生400円/小学生以下(保護者同伴に限る)無料
境内に入ると、概ね全体を見渡せるほどのお寺なので、案内は必要なさそうですが、
とりあえず、参拝順に歩きましょう。
すぐに苔庭が見えます。
見所チェック‼️
ここにも数体の石仏がありますが、まだ疎ら。
真ん中辺りに大きな石を真ん中に三つの石が見えるでしょうか。
逆光でない、ちゃんとした画像をお借りしました。
石の阿弥陀三尊というものだそうです。
苔庭から仏舎利塔をぐるっと回ると本堂への通路に出ます。
左手に近年建てられたと思われる墓地、右手の墓地の向こうに西の河原という石仏群。
見所チェック‼️
正面の建物の奥が本堂です。
本堂には阿弥陀様がお座りになっています(運慶の長男の湛慶の作だという話があります)。
優しいお顔の阿弥陀様です。
静かに手を合わせました。祈り
この地は初めは風葬の地だったという話はしました。
それが、後年、土葬となり、埋葬した場所に石仏が作られたのです。
境内にある多くの石仏、石塔は長い年月の間、化野一帯に葬られた人々のお墓だそうです。
こうして庶民は身近な人との別れを悲しんだんですね。
歴史です。
化野念仏寺に伝えられているところでは、
弘法大師、空海が弘仁年間(八一〇~八二四)、野ざらしになっていた亡き骸を憐れんで、化野の地にお寺を建てたのがはじまりだそうです。
そのころ、空海は今の神護寺である高尾山寺に滞在していたのですが、化野の荒れように心を痛めたのでしょう。
でも、この日の前日、私は高尾から嵯峨野に戻ってきましたが、バスで三十分はゆうにかかりました。
この距離を歩いたんですから、空海さんも大変だったと思います。
それとも高尾山も嵯峨野も嵐山も、愛宕山系とその裾野、ということで、当時の人は一体に考えていたのでしょうか。
それはともかく、化野に来た空海さんはこの地の全景に注目したようです。
真ん中を流れる曼荼羅川を挟んで、東に小倉山、西に曼荼羅山が控えています。
そこで空海は真言密教の根本原理、金剛界を小倉山、胎蔵界を曼荼羅山に見立てて千体の石仏を埋めました。
土葬の習慣を中国からもたらしたのが空海だと言われています。
さらに、曼荼羅川の河原に五智如来を立て、「一字を建立」とありますから、五智如来を覆う堂宇を建てたのでしょうね、これを五智如来寺と称したのだそうです。
(空海が創建した東寺の講堂の立体曼荼羅の中央にある五智如来像ですー資料画像)
五智如来を建立した、というのはなかなかの力の入れようでしょう。
大日如来に備わっている五つの智慧(物事の真理を正しく理解し、見抜く力)を五体の如来にあてはめて、中央に大日如来、その周りに不空成就如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来を配して祀ります。
言ってみれば、真言宗の根幹の力を化野に散乱する遺体の供養に当てたのでしょう。
化野に散在していた亡き骸に空海がどれほどの哀れみを感じたかが想像できるようです。
その後しばらくは化野の情報はありません。
平安時代、仏教は基本的に皇族や貴族のもの。
祇王の悲恋も、当時の多くの庶民からすれば恵まれていたとも言えそうです。
化野での土葬も広まって、供養の石仏や石塔が一つまた一つと増えていっていたことでしょう。
でも、まとめ役がいたとは思えません。
案外と荒れ果てていたんじゃないでしょうか。
仏教が庶民のものにもなるのは、鎌倉時代を迎えてからでしょう。
だとすれば、庶民の仏教の代表格、浄土宗、法然の出番です。
延暦寺の弾圧から法然の遺体を守るため、知恩院から二尊院まで千人の武士や僧侶が付き従ったという話です。
話はまだ法然が生きていたときです。
浄土宗が延暦寺とトラブった頃、法然がその弾圧から逃れて、化野に念仏の道場を開いたそうです。
すると、ここに多くの念仏衆が集まってきました。
当時の念仏衆は、延暦寺が弾圧するほど恐れていたわけですから、相当な勢いだったと思われます。
そのとき、五智如来寺は名を改め、念仏寺となったのです。
ちょっと疑問はあるのです。
五智如来寺の位置と今の念仏寺の位置が一致しないような気がするんですがねー
まあ、ここはこれでよしとしましょう。
江戸時代になってからですね、正徳二年(一七一二年)に本堂に本尊の阿弥陀如来像が安置され、再建された、とありますからー
室町時代もやはり荒れたんでしょうね。
さあ、これで石仏たちも安泰か、と思いたいのですが、そうもいかなかったようです。
ともかく長い年月がたっています。
その間に石仏も無縁仏となって、化野の山野に散らばったり、土に埋まったりしていたと伝わっています。
動きがあったのは明治も中期になったころです。
地元の人々の協力などもあって、石仏や石塔が整理されたとのことです。
そのときに賽の河原に習って「西の河原」と名付けられたのです。
フッ、長い歴史でしたー
見所チェック‼️
(資料画像です)
境内ぐるっとを一回りして、西の河原に入ります。
鐘楼の下をくぐると西の河原です。
膝の高さほどもない小さな石仏や石塔が整然と並べられています。
写真のように通路があって、ずっと巡ることができます。
歩いている人はあまりいません。
周囲には結構な人がいるわりに、ここにはあまりいません。
人の死と関わる場所なので敬遠しているのでしょうか。
でも、石仏も石塔も静かですよ。
長い年月風雨にさらされて、どの石仏も多分元の姿をとどめていません。
それがむしろ、人の息遣いが時の流れの中に溶け出したように感じられます。
結構、ニュートラルです。
生きているこちらの側の迷いをじっと黙って受け止めているような気がします。
大丈夫だよ、ってね、例えばー
感動的でしたー
見所チェック‼️
(資料画像です)
毎年八月二十三、二十四日の両日には、境内にあるおよそ八千体の石塔、石仏に灯を供える千灯供養が行われます。
幻想的な雰囲気ですね。
今度はこの時期に来てみたいですね。
(資料画像です)
紅葉のころには、石仏が鮮やかに色づいた紅葉に囲まれるんですね。
先ほどの私の写真と似たような角度の写真ですが、紅葉があるとずいぶんと違います。
ここを訪れた十一月初旬は、まだ早かったようです。
見所チェック‼️
(資料画像です)
本堂の脇から竹林に入れます。
きれいな眺めです。
ただ私が訪れたときは
今般「庫裏」改築工事を行うこととなりました。 工事中、安全の為に「竹林の小径」を閉鎖します。
ということで入れませんでした。
いつから入れるのか、今(2018年11月3日)の時点では不明です。
お寺のHPでご確認ください。