南禅寺 ぶらり散歩
さて、今回は南禅寺です。
メジャーなお寺ですね。
南禅寺方面への指示に従って地下を出ると、目の前は右手方向へ下る仁王門通り。
下る方へ歩きます。
すると、まもなく右手側に蹴上インクラインの下をくぐる小さなガード。
見所チェック‼️
このガード、螺旋状にレンガが積まれています。
こういうガードをねじりまんぽ、と言うそうです。
*琵琶湖疏水には船も航行していましたが、航行不可能な箇所はトロッコのような台車に船を載せて運搬したそうです。これがインクラインです。蹴上インクラインは桜でも有名です。
これをくぐれば、もう南禅寺です。
ただし、この道は塔頭の立ち並ぶ中を抜けて、南禅寺の参道の途中に出ます。
南禅寺の参道に正面から入るなら、仁王門通りをもっとずっと下らなければなりません。
参道に入るとまずは中門が見えます。
中門をくぐって、左手方向へ進みます。
すると、まもなく右手方向に見えてくるのが、
南禅寺の代名詞、三門です。
中門から三門へはクランクに曲がるんです。
見所チェック‼️
*三門には登れます:一般500円/高校生400円/小中学生300円
さて、目の前に三門が現れました。
南禅寺の三門はデカい、そう思います。
大きさでは知恩院の山門に譲るそうです。
でも、その威容、堂々たる佇まいがデカいんです。
再建されたものですが、創建当初の形は再現されているんでしょう。
この大きさからは南禅寺に託した人々の思いが伝わってくる気がします。
禅宗寺院の場合、山門と言わずに三門と言います。
三門とは、禅宗の仏道修行で悟りに至るまでに通らなければならない、空、無相、無作の三解脱門のことだそうです。
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の名台詞。
(お借りした画像です)
石川五右衛門がこの門の上で見栄を切って、「絶景かな!絶景かな!」と言ったわけです。
五右衛門のように、夕暮れ時の満開の桜の京都が眼下に広がってはいませんが、すばらしい京都の町が見渡せることは間違いありません。
ただ、一つ問題。
現在の三門は五右衛門の死後三十年以上経った寛永五年(一六二八年)の再建されたもの。
その前の三門は文安四年(一四四七年)の火災で焼失。
その間の約百八十年間、三門はなかったんです。
さて、石川五右衛門、生年は不詳ですが、死んだのは、文禄三年八月二四日。
現在の暦では、一五九四年十月八日。
つまり、五右衛門は三門のなかった時期に生きていた人なんです。
安土桃山時代の盗賊、石川五右衛門の生きていた時代に三門はなかったのです。
まあ、細かいことは良しとしましょう。
三門を降ります
三門越しに繁茂した夏の木々の間から本堂の法堂が見えます。
法堂に向かって真っ直ぐ伸びる広い参道、
参道に掛かる、両脇の大きな木々の枝葉、
その枝葉の向こうに法堂の姿が見え隠れします。
(お借りした画像です)
近づくにつれて、これも三門に劣らず、堂々とした姿の全景を現してきます。
歴史です❗️
ここで、南禅寺の歴史を見てみることにしましょう。
現在南禅寺が建っている場所には、当初、後嵯峨天皇が文永元年(一二六四年)に造営した離宮があったそうです。
禅林寺殿(ぜんりんじどの)という名前だったそうです。
なんだか人の名前のようですが、そもそも「殿」というのは貴族の邸宅のことですからー
これ、正しくは、禅林寺。
禅林寺殿はここから名前を取ったそうです。
さて、この離宮の「上の御所」に持仏堂(今の住宅でいう仏間みたいなもの?)が造られました。
これを「南禅院」と名付けたんです。
今は南禅寺の別院になっている南禅院は、本来南禅寺の先輩なんですね。
出家して法皇となった正応四年(一二九一年)、離宮の禅林寺殿をお寺に変えることにしました。
開山にあたった僧は、当時80歳の無関普門(むかんふもん)。
東福寺で修行したあと、宋に留学、10年以上修行した後、帰国。その後も修行を続け、東福寺の住持となったのが、70歳のころ。
禅林寺殿に夜な夜な出没して亀山天皇を悩ませていた妖怪変化を、無関普門が座禅をしただけで退治したとか。
これが亀山法皇が無関に開山を任せた理由。
でも、無関普門が開山した当初の南禅寺にはこれといった伽藍はなかったそうです。
そんな南禅寺を寺としての形に整えたのが後任の住職。
最初は「龍安山禅林禅寺」とされ、さらに「太平興国南禅禅寺」となりました。
南禅寺の誕生は正安年間(一二九九 〜一三〇二年)のことだそうです。
こういうお寺の説明の仕方の裏を読むと、
このときの南禅寺は今とは違って、禅寺本来の形をしていたんだ、
と私などは読んでしまいます。
飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日本化し、和様と呼ばれるようになります。
しかし、平安時代後期になると、中国(宋)との交易が活発になって、また再び中国の建築様式が伝えられ、大仏様とよばれる様式になります。
その後、中国と往来した禅僧が中国の寺院建築様式が伝え、これが禅宗寺院の仏堂に多く用いられました。これを禅宗様と呼びます。
その禅宗様の中心的な伽藍の配置では、三門、仏殿、その後ろに法堂 (はっとう) ,方丈が一直線に並ぶのですが、現在、京都五山でも仏殿と法堂が揃っているところはないそうです。
南禅寺も三門と法堂、そして、大小の方丈の三つ、ないし、四つ。
創建当時の状態にはないのでしょう。
それはその後の南禅寺と関係がありそうです。
明徳四年(一三九三年)と文安四年(一四四七年)の火災で、南禅寺は主な伽藍を焼失します。
すぐに再建しましたが、
一四六七年に始まった応仁の乱でまた伽藍のほとんどを焼失。
しかし、ここから再建、復興はなかなか進まず、
進んだのは、江戸時代になってからの慶長十年(一六〇五年)のこと。
それでも五右衛門を三門に乗せて例のセリフを言わせたんですから、三門のなかった百数十年の間も、人々の記憶に三門は生きていたんですねー
でも、最初の伽藍をすべて復活させられなかったんです。
現在もスケールの大きさを感じさせる南禅寺だけに、創建当時の偉容は想像にあまりあります。
ちなみに、創建当初の寺領は上の地図の東海道(赤い線)と南禅寺の中門から参道の道の延長線(黄色の線)が交わる粟田口まであったそうです。
*そのため室町時代、焼失した三門の再建のための資金を粟田口に関所を造って通行料を徴収していたという話もあります。
見所チェック‼️ー法堂へ向かいます
お待たせしました。
いよいよ木々が覆い被さる参道を歩いて、真っ直ぐ法堂に向かいます。
法堂は南禅寺の法事の中心です。
横にゆったりと広く佇む様子は巨大な鳥が羽を休めているようです。
この法堂は慶長十一年に再建されたもので、天井には狩野山雪による龍図が描かれていたそうです。
でも、この法堂も明治二十八年(一八九五)、火災で焼失して、十四年後の明治四十二年(一九〇九)に再建され、現在に至っているのです。
(資料画像です)
直接拝観できない須弥壇には、
中央に本尊釈迦如来、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像が安置されています。
巨大な円柱に支えられた屋根、
天井には今尾景年作の幡龍。
金網越しに暗い堂内を覗きました。
禅寺にある天竜の図は見えましたが、本尊は確認出来ませんでした。
ともかく本尊の釈迦如来像のある方に向かって手を合わせました。祈り
法堂を離れます。
法堂を出て左方向に向かうと、三四十メートル先にレンガ造りの、レトロな構造物が見えます。
この木造の建築物の中にあってレトロというのも変ですが、
見所チェック‼️
琵琶湖疎水水路閣です。
今言ったように、木造建築の大きな伽藍の傍にレンガ造りの構造物、普通に考えるとかなりの違和感を覚えるはずなのに、実際はそれほどではありません。
テレビドラマの撮影に使われるお馴染みのものです。
上の様子です。
京都の地下には豊富な地下水があります。
伏見の酒、豆腐、水に関わるものはいろいろ有名です。
でも、時代が産業の時代になると、地下水では間に合わなかったのでしょう。
首都を東京に奪われた京都はこれにかけました。
灌漑、上水道、工業用水、水力発電などを目的に、琵琶湖の水を引く、つまり、疏水を計画
産業の振興を目指したのです。
その事業主任に、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じたというのだから、驚かされます。
人事に関して、慣習に捉われなかったんですね。
建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声があがったそうです。
当然のことです。
ところが、工事が始まると、南禅寺の三門に見物人が殺到したというのです。
京都を代表する寺院の一つである南禅寺の本堂のすぐ傍にこのようなものを若手に造くらせた感性。
それを多くの市民が歓迎していたという感性。
どれも驚きです。
京都の、守るばかりでない、攻める姿勢にも注目しておかないといけませんね。
そもそも南禅寺は時の天皇、上皇の発願により創建された、日本最初の勅願禅寺です。
建武元年(一三三四年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としました。
ところが、至徳三年(一三八五年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一としたかったんでしょうね。
金閣寺の義満ですものねー
そこで、相国寺を第一とすると、南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけるしかなかったんだそうです。
南禅寺は侵すべからざる存在だった、ということでしょうか。
水路閣にまつわる驚きは、さらにその位置もなんです。
中門から参道の延長が粟田口で東海道と交わると言いましたが、
この道の反対方向は大方丈で終わっているんです。
まず一点は、本堂と水路閣の間にこの道が通っていることです。
しかも、水路閣をくぐった先に、例の南禅寺の別院で、南禅寺発祥の地の南禅院が石段を登ったところにあるのです。
お借りした画像です
見所チェック‼️ー南禅院の庭園に足を踏み入れます。
(資料画像です)
*南禅院:一般300円/高校生250円/小中学生150円
時代は一気に江戸の昔へタイムスリップ。
南禅院の庭園は池泉廻遊式庭園で、庭園の中心に曹源池とよばれる二つの池が配されています。
庭そのものは室町時代以降の武家屋敷に見られる山水庭園で、それはそれで美しいのです。
でも、ここの特徴は池の向こう岸が急角度に登っていることでしょう。
そのため視線の前の山が急激に迫っていて、庭園に凝縮された一体感を与えているように思います。
南禅院が東山の麓に造られたからなのです。
普通、借景によって庭は遠近感を得ます。
ところが、南禅院の庭園は借景によって、山の中腹に包まれたような、温かみを手に入れたように感じます。
素敵な庭でした。
見所チェック‼️ー方丈へ向かいます
*方丈:一般500円/高校生400円/小中学生300円
国宝の方丈は大方丈と小方丈の二つからできています。
大方丈は安土桃山時代に造られた旧御所の女院御所の対面御殿の建物が下賜され、移築したものです。
大方丈と渡り廊下で繋がっている小方丈は寛永年間といいますから、十数年後に建てられたもののようです。
伏見城の遺構とも言われています。
(資料画像です)
幾何学的に大小の方丈をつなぐ渡り廊下を包む小さな庭はいいです。
そして、なにより大方丈の小堀遠州作といわれる、「虎の子渡しの庭」と小方丈の「如心庭」、
二つの枯山水庭園があります。
この旅行ではここの他にもいくつかの枯山水を見ましたが、見れば見るほど、私は龍安寺の石庭が見たくなるんです。
説明を聞くと、枯山水になんらかの意味を付与しようとすることが多いし、そう見るのが正しいと思えるものばかりで、南禅寺の方丈の枯山水もそうでした。
枯山水の見方は果たして本当にそれでが正しいのか、龍安寺の石庭を見て確かめたくなったのです。
このときも、翌日、龍安寺に出かけました。
襖絵
大方丈を巡る廊下を歩きます。
大方丈には六つの部屋があって、仏間を除く各室に桃山時代の狩野派の障壁画があります。
(資料画像です)
全部て124面で、いずれも重要文化財に指定されています。
旧御所を移築したものですだから、これだけの障壁画があるんですね。
襖絵というものは不思議なものです。
現代の画家が描いた襖絵を何度か目にしたことがありますが、
私の目には、絵の良し悪しは別にして、これらはたいてい絵画に偏りすぎて、うるさい感じがします。
どうも、襖絵は単なる絵画ではない、という思いに駆られます。
ではインテリアの見地から、装飾か、と見ると、単純にそうでもないのです。
襖絵には、絵画とデザインの中間的な性格があるのかなぁと思ったりもします。
では、どうすればいいのか。
それはたぶん、現代の私たちが慣れてしまった創造性を控えることじゃないかと思うのです。
襖絵は題材や絵画手法が必要以上に人の目を惹いてはならないのではないでしょうか。
かといって、まるで無視されても困ります。
そのためには、確かな技法で人々の見知った題材が確実に描けていなければならない、
職人技ですね。
狩野派の襖絵はあれだけ派手な構図を持ちながら、まるで邪魔にならず、部屋の雰囲気を盛り上げているのです。
一種独特の絵画です。
秀吉が好んだ琳派の絵画は、狩野派以上にデザイン的です。
(資料画像です)
見所チェック‼️ー湯豆腐
*調べた限りでは、2400円〜3800円
南禅寺の帰りに、参詣道の両脇に立ち並ぶ湯豆腐の店のひとつに立ち寄りました。
湯豆腐は南禅寺周辺参道の精進料理が起源とされています。
湯豆腐はもともと僧侶の精進料理でしたが、参詣道筋の茶店がこれを元にアレンジして作り上げたのが湯豆腐という料理だそうです。
これが、江戸時代のころ北前船に乗って京都から西廻り航路で広まったというのです。
名物にうまいものなし、とよく言いますが、ここの湯豆腐は違っていました。
固めの絹ごしを昆布出汁の中で茹で、それを薬味をたっぷりいれた、少し甘めの醤油ダレで食べます。
あまり強すぎない豆腐の風味がタレで増幅されるような感じなのです。
副菜に京都のおばんざいや漬けものを箸休めにつまみながら、なるほど湯豆腐は十分メインのメニューになっていると思いました。
ごちそうさまー