ウィーンのワグナー:『ヴァルキューレ』

2016年I月13日ウィーン国立歌劇場

前回の『ラインの黄金』の続きです。

物語はラインの川底の眠りから目覚めたニーベルングの指環を巡る争いの経緯は神々族の長、ヴォータンの動きを中心に進められます。

これは『ラインの黄金』とは一変して素晴らしい上演です。アダム・フィッシャーの指揮はオーケストラから分厚い響きを引き出し、非常に綿密に設定されているテンポや音の強弱を丹念に、しかも、大胆にコントロールして、芝居の陰影を描き出しています。『ラインの黄金』から数日後の演奏のはずですが、新演出の緊張もほぐれ、本来の調子を取り戻したようです。
この上演の目玉のひとつはヴァルトラウト・マイヤー演じるジークリンデでしょう。プラシド・ドミンゴと共演してジークリンデを演じたのが1994年ですから、およそ20年あまり後のヴァルトラウテ・マイヤーのジークリンデです。その間幾度となく歌ったと思いますが、演技に新鮮さは失われてもいないし、声の艶も少しも衰えていないことには驚かされます。

1幕は不幸な経緯から別々に育った双子の兄妹が偶然に出会い、愛し合うようになるという許されざる愛の描く場面。そのためジークリンデは純心さ、ナイーブさが肝心なところですが、マイヤーは変わらずにジークリンデのナイーブさを魅力的に表現しています。
ジークムントのクリストファー・ヴェントリスは
脂の乗ったイギリス出身のヘルデン・テナーです。この後、バイロイトでサーカス団にシチュエーションを置き換えた話題の『タンホイザー』で主役を歌います。実際、彼はヴァルトラウテ・マイヤーを相手に臆することなど微塵も見せずに、堂々と渡り合い、これ以上ないぼどのワグナーの描く愛の世界を表現しきっています。その舞台映えのする容姿も相まって、理想に近いジークムントを演じているといえるでしょう。
ヴォータンのトマス・コニエスチュニーは独特の発声ながら、聴いているうちにヴォータンの威厳と弱さを巧みに歌い分けるテクニックに取り込まれます。『ワルキューレ』での見せどころは2幕、結婚を司る女神の妻フリッカにやり込められるところと、神々の長としての心の苦しみとそれでいながら長としての建前を捨てようとしない苦悩を娘のブリュンヒルデの前で吐露するシーン、そして、3幕ラストの「ヴォータンの別れ」です。おおむね見事にヴォータンを演じていますが、特に注目するのは己れの心の苦しみを吐露する場面。ここは旋律にならない音の抑揚だけで話し続け、ときおり感極まるようにはっきりとした旋律を伴って高揚するのですが、この独白部分は時に退屈になります。コニエスチュニーの歌もかなりこの状態に陥りかかっていました。唯一残念なところでした。
フンディングのアイン・アンガーは『ラインの黄金』でファゾルトを歌った歌手ですが、声の深み、艶やかさ、音量に不足はなく、拉致するように強引に妻にしたジークリンデをジークムントに奪われ、そのジークムントをヴォータンの助けで復讐を果たすものの、最後はヴォータンにあえなく殺されてします役ですが、威厳と弱さが同居した男を好演しています。
フリッカのミカエラ・シュスターは『ラインの黄金』に引き続きの役ですが、ここではヴォータンを、不倫の愛に陥って結婚の誓いを裏切ったジークムントとジークリンデのことでやり込める怖いおばさんがよく表現されていました。
ブリュンヒルデのリンダ・ワトソンも悪くありません。その大きな体のわりに迫力があるブリュンヒルデというよりも、線は細くないが、しっかりとした土台に美しさと若々しさを湛えたブリュンヒルデです。『ヴァルキューレ』の2幕から登場するブリュンヒルデは父ヴォータンを信頼しきって、怖いフリッカがやってくる、とふざけながら逃げ出すナイーブなブリュンヒルデから、ヴォータンに、例えば、ジークムントとジークリンデの2人は指環奪還のためヴォータン自身が生ませた子供だったのですが、その野望を妻フリッカに否定されるなど、心の内の苦悩を打ち明けられて寄る辺ないない想いに駆られ、それでも気持ちを立て直してヴォータンの真意を実現しようとジークリンデ、ジークムントの2人を助けようとする、それも成らず、ヴォータンの命に背いたこととなり、ヴォータンの罰を受けます。このときブリュンヒルデは自分とその周囲の運命に気づいて、ナイーブな乙女を脱することになります。いわば、1人の女性の心の成長を描く『ワルキューレ』の中でリンダ・ワトソンはそんなブリュンヒルデを丹念に表現していると言えるかもしれません。
最後に、スヴェン=エリック・べヒトルフの演出ですが、全体に簡素化された舞台装置です。I幕は中央にトネリコの大木があって、その裾にテーブルが取り囲んでいるというもの。2幕は神々の世界は『ラインの黄金』の時のように舞台上にいくつかの大きな岩を模したものを置いている。2幕後半はジークリンデとジークムントが逃げ込んだ森の中。フンディングとの戦いとなる森は大木をました柱状の物がいく本も立っています。3幕の岩の上には馬の模型が5、6頭立ち、その前でヴァルキューレやヴォータンに追い立てられたブリュンヒルデとお腹に子を宿したジークリンデ、ヴォータンとブリュンヒルデの別れが演じられます。舞台の広がりという点ではスケールの広がりが感じられません。『ニーベルングの指環』を通して馬の存在がキーになっているように思うのですが、この演出で馬の模型が何頭も出てきたことはいいのですが、模型はじっとしたままでただの背景になってしまったことは残念です。演出で注目するのは2幕の終結部。フンディングとジークムントが戦って、いざというときにブリュンヒルデジークムントに加勢をしてフンディングを倒そうとしますが、その瞬間、ヴォータンが現れてジークムントの持つノートゥングを自らの槍で叩き折り、結局、ジークムントがフンディングの前に倒れる場面。事の流れの割に短いように思う音楽を背景に行われるパントマイムですが、まずまずその流れは読み取れる形になっていますが、92年バイロイトクッパファーの演出に比べると演者の動きにキレがないように思います。

アダム・フィッシャー(指揮)/クリストファー・ヴェントリス(ジークムント)/アイン・アンガー(フンディング)/トマス・コニエスチュニー(ヴォータン)/ヴァルトラウト・マイヤー(ジークリンデ)/リンダ・ワトソン(ブリュンヒルデ)/ミカエラ・シュスター(フリッカ)スヴェン=エリック・べヒトルフ(演出)/ロルフ・グリッテンベルク(舞台)/マリアンヌ・グリッテンベルク(衣装)

ウィーンのワグナー:『ラインの黄金Das Rheingold』

ワグナー:『ラインの黄金Das Rheingold』
2016年I月10日ウィーン国立歌劇場

今、YouTube で見ることができるワグナーの『ニーベルングの指環』全曲です。ということなので、ちょっとレヴューを書いてみようと思いました。お付き合いください。

長い『ニーベルングの指環』の物語が始まるきっかけがこの『ラインの黄金』で語られます。だから、前夜という副題で、これから始まりますという出し物。

ワグナーの『ニーベルングの指環』は特にセリフと音楽との繋がりが重要なのです。この映像には字幕がないので、どこかでセリフを手に入れてご覧になることを勧めます。ネット上には『オペラ対訳プロジェクト』という労作がアップされているので、これを利用するのは便利。

さて、『ラインの黄金』のあらすじから始めましょう。

ラインの娘たちに守られてラインの川底に眠っている黄金がニーベルング族のアルベリヒに盗まれるところが始まり。この黄金から造られた指環を手に入れると世界を支配できるという魔法がかけられています。指環を巡る、世界の支配を巡る争いが始まります。巨人族にワルハラの城を建てさせたのに代金が払えない神々族の長、ヴォータン。巨人族は代金が払えなければ美の神フライアを連れて行くと言います。火の神ローゲの情報で、ヴォータンはアルベリヒからラインの黄金を盗んで、城の代金に当てることにして、ヴォータンはローゲと共に地下のニーベルング族のところへ行きます。アルベリヒをうまく騙して黄金と指環、そして、隠れ頭巾まで奪い取ります。アルベリヒはヴォータンを憎んで「nun zeug' sein Zauber Tod dem, der ihn trägt!この指環の魔力は、この指輪を手にした者に死をもたらす」と呪いをかけるのです。ヴォータンは城の代金に黄金と隠れ頭巾、そして、渡したくなかった指環まで巨人族に取られてしまいます。こうして神々族は無事にワルハラの城に入るのですが、地上に現れた指環を巡って、世界の支配を巡って神々族、ニーベルング族、巨人族の三つ巴の戦いが始まります。それは神々族の没落の道でもあるのですが、彼らは知ってか知らずか、ワルハラの城に向かって歩き続けます。
新演出の最初の公演だからなのでしょう、動きも演奏も硬い感じがします。特に冒頭はラインの娘たちも黄金を奪うアルベリヒも歌ばかりか、男を誘惑してからかったり、娘を追い回したり動きが多いのですが、自分のものになっていない感じで、人形のようにみえます。演者はライン川の波打つ水を表す大きなシーツのような布の処理に戸惑っていました。
第2場 城の完成に悦に入っているヴォータンに妻のフリッカが城の代金をどうするのかと詰め寄る場面ですが、ヴォータンのトーマス・コニエスチュニーの発声があまり好みでないことを除けば、能天気なヴォータンが徐々に現実の危機に気づき始める流れはよく表現されていました。フリッカのミヒャエル・シュスターが、声の艶やかさは十分ですが、少しヴォータンの褒め言葉にやや表情を崩すくらいはいいのですが、すり寄るような仕草までは必要ないのではないように思いました。フリッカはすでにヴォータンのダメ旦那振りに嫌気が差しているのですから。
3場は地下ニーベルング族のいるニーベルハイム。ここはアルベリヒとミーメ、その後、ミーメに代わってローゲ、セリフの数が特に多い3人の歌手による言葉のやり取りです。マイスターの印である白衣を模した上っ張りを着ていながらアルベリヒに虐げられている鍛冶職のミーメ、指環の力で支配するアルベリヒ、アルベリヒを騙して黄金と指環を神々のためち盗もうとするローゲ、普通は激しい言葉のやり取り行われる場面だが、この上演ではやや緩めのテンポなので歌手はセリフを捲し立てるようなことはありません。話の内容を伝えることを重視しているように思われます。ただ、演奏はちゃんと迫力があります。十分とはいえなくても。しかし、本格化しているとは言えません。
演奏が目を覚ますのは、4場になってから。ローゲに騙されて黄金と指環ともどもワルハラへ連れてこられたアルベリヒが黄金と指環を奪われた怒りと恨みをヴォータンに向かって独白する場面。素肌に皮製のような黒いチョッキを着て、カウボーイのようにこれも黒いテンガロンハットを被ったヨッヘン・シュメッケンベッヒャー演じるアルベリヒは抑えきれない怒りを迫力たっぷりに吐露していました。
この辺からノルベルト・エルンスト演じるローゲも調子を上げてきます。ローゲはこの話の狂言回しですから張り切ってもらわないと困ります。

このあと、担保に巨人族に誘拐されたフライアを受け出すために、ヴォータンはアルベリヒから奪った黄金を差し出します。しかし、隠れ頭巾に指環までも要求され、ヴォータンは指環を渡すことを渋ります。そんなヴォータンの前にアンナ・ラーションが演じる運命の女神エルダが現れます。彼女のエルダは素晴らしい。神々の不安な行く末を警告して指環に手を出すな、と警告する役柄は短い出番でも『ラインの黄金』全体で重要なシーン。これを重厚であり、かつ、伸びやかな声でエルダを十分に演じきっています。

そして、指環も渡し、フライアが戻った神々族は不安を抱えつつワルハラの城へ向かって歩みを進めます。そんな神々を見ながら、ローゲは神々族の不吉な行く末を予言しますが、もう少し存在感があっても良かったと思います。ただ、この間は非常に厚みのある、ウィーン歌劇場のオーケストラ本来の響きをたっぷりと轟かせる堂々たるラストでした。
演出は簡素化されたモダンなセットです。ややチープな印象はありますが。ライン川は緑のライトに照らされた大きなシーツをゆらゆらと揺すって波を表しています。すでに言ったように、ラインの娘たちが自身の動きとともにこのシーツの動かし方に不慣れな感じを受けました。

地下のニーベルハイムでは真ん中に大きな棚があって、黄金が納められているのですが、その黄金が人の形をして、頭、腕、足とバラバラになっているのです。後に天空に戻って担保のフライアを受け取る時、巨人族がフライアの姿が隠れる高さに黄金を積み上げろと要求するのですが、フライアの前にその積み上げる黄金がバラバラのマネキンとなっていて、積み上げると一体のマネキンになるような仕組みになっているのです。地下のバラバラの人体はその伏線かとも思いますが、よく理解できません。

アルベリヒが隠れ頭巾でドラゴンに変身する場面はドラゴンを連想させるウロコに覆われたヘビ状のものがスクリーンに映し出されるが、やや迫力に欠ける。その後にカエルに変身するが、小さなカエルのフィギュアを頭に乗っけて黒づくめの人がカエルのように腰を屈めて両手を前に出す格好はいただけない。

神々族はヴォータンとフリッカを除いて全員白のドレスにスーツを着ているのは、フライア、ドナー、フローの3人が神々の危機を意識していないナイーブさを表しているのかもしれません。そのせいか3人の神々の存在感が薄くなっています。
このあとに続く『ニーベルングの指環』連続上演の始まりとしてまずまずの仕上がりだったとは言えるかもしれません。ただ、ウィーンの「ニーベルングの指環』はこれでいいのか、という思いは残ります。

出演者を紹介します。

トーマス・コニエスチュニー(ヴォータン)/ノルベルト・エルンスト(ローゲ)/ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー(アルベリヒ)/ミヒャエル・シュスター(フリッカ)/カロリーネ・ヴェンボルン(フライア)//ボアズ・ダニエル(ドンナー)/ジェイソン・ブリッジス (フロー )/アンナ・ラーション(エルダ)/ヘルヴィーク・ペコラッロ(ミーメ)/アイン・アンガー(ファゾルト)/ゾーリン・コリバン(ファフナー)/アンドレア・キャロル(ヴォークリンデ )/レーチェル・フレンケル (ウェルグンデ )/ゾルヤーナ・クシュプラー(フロースヒルデ )/アダム・フィッシャー(指揮)ウィーン国立歌劇場/スヴェン=エリック・べヒトルフ(演出)

モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」全4幕

1980年 パリ・オペラ座
ジョルジョ・ストレーレル (演出)
ゲオルク・ショルティ(指揮)/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団
ホセ・ファン・ダム(フィガロ) /ルチア・ポップ(スザンナ) /グンドゥラ・ヤノヴィッツ(伯爵夫人) /ガブリエル・パスキエ(アルマヴィーヴァ伯爵 ) /フレデリカ・フォン・シュターデ(ケルビーノ) /クルト・モル(バルトロ) /ミシェル・セネシャル(バジリオ) /ジャーヌ・ベルビエ(マルチェリーナ)/ジャック・ロロー(ドン・クルツィオ) /ジュール・バスタン(アントニオ) /ダニエル・ペリエ(バルバリーナ )

このレベルの上演をいいの悪いのと言ってもあまり意味がないように思います。良いに決まっています。モーツァルトの世界を堪能できたと言う以外に言うべきことはありません。
それでも演奏の特徴を言えば、やっぱりショルティの指揮の正確さが全体を象徴しているように思います。以前、ショルティのドキュメンタリー番組でショルティが自分の頭の中のテンポとメトロノームのテンポがいかに一致しているかをプレゼンしているのを見ましたが、その正確さには驚かされました。あれ以来、ショルティの器楽的な音楽感が目に焼き付いて離れません。
この演奏でも、テンポや音程に緩みがありません。
唯一、2幕の始めのロジーナのアリアからスザンナとの手紙の二重唱は、感覚的に遅すぎて、歌い手が苦労しているように思いました。
ショルティのことですから、これも、おそらく、モーツァルトの、あるいは、楽譜の指示通りにやると、こうなるのでしょう。ちょっと違和感は残りましたがね。
ショルティの指揮は時折り歌よりも器楽的に曲を進める時がありますが、ここなどは特徴的なところでしょう。
それ以外は純粋にドイツ系の演奏に比べるとテキパキとしたメリハリの効いた演奏である。ショルティハンガリーで生まれ、ブダペストの国立歌劇場でコレペティートル(歌手のリハーサルの伴奏をするピアニスト)としてキャリアを積み、24歳のころザルツブルク音楽祭トスカニーニの目に止まり、2年間助手を務めたそうです。トスカニーニの影響が見られますね。
ルチア・ホップのスザンナは同世代のもう1人のスザンナ歌いてあるミレッラ・フレーニに比べると落ち着きのあるスザンナで、この上品さももう一つのスザンナ像を見せてくれています。
他にホセファンダム(このとき40歳)のフィガロヤノヴィッツのロジーナ(このとき43歳)、フレデリカ・フォン・シュターデ(このとき35歳)のケルビーノ、みな油の乗り切った年齢のことで、気品と落ち着きを感じさせます。
モーツァルトの遊び心を全面に出す演奏とは少し異質かもしれません。だらかと言って、モーツァルト的でない、と言うのでもなければ、演奏に問題がある、などと言うのでもありません。演奏の方向性に違いがあると言うだけで、素晴らしい『フィガロ』の上演であることに間違いはありません。
イタリア生まれで、フランスでも活動しているストレーレルの演出はロココ風の装飾を極力廃していながらも、衣装は伝統的なものを基調としているので、ロココの雰囲気は失っていません。中庸を保った演出と言えるでしょうか。
ワグナーと違って、モーツァルトのオペラはやはり音楽が中心。ショルティの器楽的な指揮もそうですが、演出も音楽の楽しさを少しも損なってはいません。
比較的最近YouTubeでオペラを楽しむことを覚えて私としては、存分に堪能しました。

R.シュトラウス:『ばらの騎士』全曲

2007年のドレスデン歌劇場の来日公演を改めて聴きました。you tubeに上がっていたので、著作権の方がどうなっているのかわからないけど、多分、NHKに権利があるんでしょうが、まあ、手軽に観れたので、楽しませてもらいました。

いい上演ですね、やっぱり。ファビオ・ルイージの指揮がいいのかなあ。ひどく細かいセリフと早いパッセージばかりが目立つのではなくて、曲の印影というか、抑揚が丁寧に表現されていて、素晴らしいですね。

彼がN響の首席になるんですから、もっぱら家で音楽を楽しむ私としては、ワクワクです。
なんとなく冒頭のオクタビアンと元帥夫人の濡れ場、2幕の銀の薔薇をエンゲージリング代わりに花嫁に渡す華やかなセレモニー(これは作者の創作ですが)の後のオクタビアンとゾフィーの二重唱、3幕最後の三重唱以外は流れみたいに見てしましますが、この上演は違います。

このオペラのテーマは「時の移ろい」、「世代の交代」。古いものの悲哀と新しいものの希望、と同時に、古いものの受け渡すことの希望と新しいものの古いものへの憧憬、そんなメロドラマに現実世界のエネルギーと粗野さが介入して大騒ぎになる喜劇。有名な見所は多々ありますが、千変万化するセリフのやり取りにこそこのオペラの内面が隠されていると思います。
1幕の新旧の睦まじさを表す元帥夫人とオックスとのやり取りの面白さ、そこに屋敷の下働きの連中が入っての喧騒のそれぞれのシチュエーションのメリハリ、2幕の新旧の入れ替わりのきっかけとなる現実世界のオックスの化けの皮剥がし、3幕のオックス追い落としのドタバタ、オペラの全体像をルイージにきめ細やかに説明してもらっているようで、楽しいですね。
この演奏、最高じゃないでしょうか。上演に立ち会った人には嫉妬します。
また、森麻季さんの1番いい時のゾフィーは、キャラクターが日本人女性向きに書かれているんじゃないかと思いたくなるくらい、可愛い。相手役のオクタビアンのアンケ・ヴォンドゥングは本当に彼女に恋しちゃったのかな、と思いたくなるほどですね。
そのほかの演者も皆達者で、これだけのレベルの演奏が日常的にできるドレスデン歌劇場には感心させられます。
1986年だったと思いますが、ゼンパー・オーパー(ドレスデン歌劇場)が修復なって再開したニュースが当時の西ドイツでも報道されて、その時の演目が「ばらの騎士」だったことを思い出します。観たかったですから。

アンネ・シュヴァネヴィルムス(S 元帥夫人)/アンケ・フォンドゥング(Ms オクタヴィアン)/クルト・リドル(Bs オックス男爵)/ハンス=ヨアヒム・ケテルセン(Br ファーニナル)/森麻季(S ゾフィー)/ザビーネ・ブロム(S マリアンネ)
オリヴァー・リンゲルハーン(T ヴァルツァッキ)/エリーザベト・ヴィルケ(Ms アンニーナ)
ロベルト・サッカ(T イタリア人歌手)、他
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/ファビオ・ルイージ(指揮)/ウヴェ=エリック・ラウフェンベルク(演出)/クリストフ・シュビガー(舞台美術)/ジェシカ・カルゲ(衣裳)2007年11月23、25日/NHKホール(ライヴ)

モーツァルトの魔笛

そもそも出掛けない質なので、you tubeはありがたい。今日は1991年のメトロポリタンの魔笛を楽しみました。

演奏スタイルにしても、演出にしても、この頃オーソドックスなものを見せてくれるのはニューヨークですよ。

レヴァインの指揮は手堅いし、キャスリーン・バトルのパミーナも見れたし、ルチアーナ・セッラの夜の女王は素晴らしかった。

クルト・モルのザラストロはばらの騎士のオックス男爵の印象が強烈で、すぐに賢者ザラストロに入っていかなかったけど、彼の最低音はやっぱり聴きどころですね。

ともかくこれといって欠点の見えない、いい公演でした。

エサ・ペッカ・サロネンのマーラー3番

サロネンとフィルハーマニアのマーラー3番はアバドと並んで、私の好きな演奏。

マーラーが創る無数のモチーフには故郷の景色を見たときの懐かしさと心の安らぎを感じる。

ひとつひとつのモチーフの描く牧歌的イメージを見せてくれないと、満足できない。

サロネンアバドにはそれがあるように思う。

ショルティのマーラー3番 その2

確か、アバドはミラノ辺りの出身ではなかったでしょうか。

ミラノを州都とするロンバルディアはもちろんイタリアですが、アルプスの裾野でもあり、オーストリアハプスブルク支配下にあった時代もありました。ミラノ出身のアバドがアルプスの牧歌的なイメージモチーフを上手に歌わせることに納得。

一方、チェコブルガリアの違いはあってもオーストリアハプスブルクと因縁浅からぬことでは小説家のフランツ・カフカの存在。個人的にカフカを連想させるショルティ

これはやぶ睨みですが、ショルティはその後ドイツ系よりイギリス、アメリカへ活動の場を進めていきました。カフカも注目され始めたのはドイツ語圏よりも、カミュに代表されるフランス系でした。

地域やその歴史が個人に及ぼす影響は別に話さないといけませんが、2人の演奏の違いを説明するヒントくらいにはなるかと思います。

やっぱりショルティは器楽的な音楽構成が目立つように思います。ちゃんと歌わせるところはしっかり歌わせているんですがね、

ただ、ショルティの演奏そのものは立派です。好き嫌いは言えても、演奏の良し悪しを言えるようなものではありません。