南禅寺 ぶらり散歩

   さて、今回は南禅寺です。

   メジャーなお寺ですね。

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    地下鉄東西線 蹴上駅南禅寺の最寄駅です。

    南禅寺方面への指示に従って地下を出ると、目の前は右手方向へ下る仁王門通り。

    下る方へ歩きます。

    すると、まもなく右手側に蹴上インクラインの下をくぐる小さなガード。

見所チェック‼️

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    このガード、螺旋状にレンガが積まれています。

    こういうガードをねじりまんぽ、と言うそうです。

琵琶湖疏水には船も航行していましたが、航行不可能な箇所はトロッコのような台車に船を載せて運搬したそうです。これがインクラインです。蹴上インクラインは桜でも有名です。

 

    これをくぐれば、もう南禅寺です。

    ただし、この道は塔頭の立ち並ぶ中を抜けて、南禅寺の参道の途中に出ます。

    南禅寺の参道に正面から入るなら、仁王門通りをもっとずっと下らなければなりません。

    参道に入るとまずは中門が見えます。

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    中門をくぐって、左手方向へ進みます。

    すると、まもなく右手方向に見えてくるのが、

南禅寺の代名詞、三門です。

    中門から三門へはクランクに曲がるんです。

見所チェック‼️

f:id:yburaritabi:20181118084008j:image *三門には登れます:一般500円/高校生400円/小中学生300円

    さて、目の前に三門が現れました。

    南禅寺の三門はデカい、そう思います。

    大きさでは知恩院の山門に譲るそうです。

    でも、その威容、堂々たる佇まいがデカいんです。

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    再建されたものですが、創建当初の形は再現されているんでしょう。

   この大きさからは南禅寺に託した人々の思いが伝わってくる気がします。

 

   禅宗寺院の場合、山門と言わずに三門と言います。

   三門とは、禅宗仏道修行で悟りに至るまでに通らなければならない、空、無相、無作の三解脱門のことだそうです。

 

   さて、南禅寺の三門といえば石川五右衛門

   歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の名台詞。

f:id:yburaritabi:20181206091533j:image(お借りした画像です)

   石川五右衛門がこの門の上で見栄を切って、「絶景かな!絶景かな!」と言ったわけです。

   五右衛門のように、夕暮れ時の満開の桜の京都が眼下に広がってはいませんが、すばらしい京都の町が見渡せることは間違いありません。

 

   ただ、一つ問題。

   現在の三門は五右衛門の死後三十年以上経った寛永五年(一六二八年)の再建されたもの。

   その前の三門は文安四年(一四四七年)の火災で焼失。

   その間の約百八十年間、三門はなかったんです。

   さて、石川五右衛門、生年は不詳ですが、死んだのは、文禄三年八月二四日。

   現在の暦では、一五九四年十月八日。

   つまり、五右衛門は三門のなかった時期に生きていた人なんです。

   安土桃山時代の盗賊、石川五右衛門の生きていた時代に三門はなかったのです。

   まあ、細かいことは良しとしましょう。


三門を降ります

   三門越しに繁茂した夏の木々の間から本堂の法堂が見えます。

   法堂に向かって真っ直ぐ伸びる広い参道、

   参道に掛かる、両脇の大きな木々の枝葉、

   その枝葉の向こうに法堂の姿が見え隠れします。

f:id:yburaritabi:20181207075018j:image(お借りした画像です)

   近づくにつれて、これも三門に劣らず、堂々とした姿の全景を現してきます。

 

歴史です❗️

   ここで、南禅寺の歴史を見てみることにしましょう。

   現在南禅寺が建っている場所には、当初、後嵯峨天皇が文永元年(一二六四年)に造営した離宮があったそうです。

   禅林寺殿(ぜんりんじどの)という名前だったそうです。

   なんだか人の名前のようですが、そもそも「殿」というのは貴族の邸宅のことですからー

   南禅寺に近い、紅葉で有名な永観堂

   これ、正しくは、禅林寺

   禅林寺殿はここから名前を取ったそうです。

 

   さて、この離宮の「上の御所」に持仏堂(今の住宅でいう仏間みたいなもの?)が造られました。

   これを「南禅院」と名付けたんです。

   今は南禅寺の別院になっている南禅院は、本来南禅寺の先輩なんですね。

 

   時は進んで、後嵯峨天皇の二代後の亀山上皇の御代。

   出家して法皇となった正応四年(一二九一年)、離宮禅林寺殿をお寺に変えることにしました。

   開山にあたった僧は、当時80歳の無関普門(むかんふもん)。

   東福寺で修行したあと、宋に留学、10年以上修行した後、帰国。その後も修行を続け、東福寺の住持となったのが、70歳のころ。

    禅林寺殿に夜な夜な出没して亀山天皇を悩ませていた妖怪変化を、無関普門が座禅をしただけで退治したとか。

   これが亀山法皇が無関に開山を任せた理由。

   でも、無関普門が開山した当初の南禅寺にはこれといった伽藍はなかったそうです。

   そんな南禅寺を寺としての形に整えたのが後任の住職。

   最初は「龍安山禅林禅寺」とされ、さらに「太平興国南禅禅寺」となりました。      

   南禅寺の誕生は正安年間(一二九九 〜一三〇二年)のことだそうです。

 

   こういうお寺の説明の仕方の裏を読むと、

  このときの南禅寺今とは違って、禅寺本来の形をしていたんだ、

と私などは読んでしまいます。

    飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日本化し、和様と呼ばれるようになります。

   しかし、平安時代後期になると、中国(宋)との交易が活発になって、また再び中国の建築様式が伝えられ、大仏様とよばれる様式になります。

   その後、中国と往来した禅僧が中国の寺院建築様式が伝え、これが禅宗寺院の仏堂に多く用いられました。これを禅宗様と呼びます。

 

   その禅宗様の中心的な伽藍の配置では、三門、仏殿、その後ろに法堂 (はっとう) ,方丈が一直線に並ぶのですが、現在、京都五山でも仏殿と法堂が揃っているところはないそうです。

    南禅寺も三門と法堂、そして、大小の方丈の三つ、ないし、四つ。

    創建当時の状態にはないのでしょう。

 

    それはその後の南禅寺と関係がありそうです。

    明徳四年(一三九三年)と文安四年(一四四七年)の火災で、南禅寺は主な伽藍を焼失します。

    すぐに再建しましたが、

    一四六七年に始まった応仁の乱でまた伽藍のほとんどを焼失。

    しかし、ここから再建、復興はなかなか進まず、

    進んだのは、江戸時代になってからの慶長十年(一六〇五年)のこと。

    それでも五右衛門を三門に乗せて例のセリフを言わせたんですから、三門のなかった百数十年の間も、人々の記憶に三門は生きていたんですねー

   でも、最初の伽藍をすべて復活させられなかったんです。

   現在もスケールの大きさを感じさせる南禅寺だけに、創建当時の偉容は想像にあまりあります。

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    ちなみに、創建当初の寺領は上の地図の東海道(赤い線)と南禅寺の中門から参道の道の延長線(黄色の線)が交わる粟田口まであったそうです。

    *そのため室町時代、焼失した三門の再建のための資金を粟田口に関所を造って通行料を徴収していたという話もあります。

 

見所チェック‼️ー法堂へ向かいます

   お待たせしました。

   いよいよ木々が覆い被さる参道を歩いて、真っ直ぐ法堂に向かいます。

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   法堂は南禅寺の法事の中心です。

   横にゆったりと広く佇む様子は巨大な鳥が羽を休めているようです。

   この法堂は慶長十一年に再建されたもので、天井には狩野山雪による龍図が描かれていたそうです。

   でも、この法堂も明治二十八年(一八九五)、火災で焼失して、十四年後の明治四十二年(一九〇九)に再建され、現在に至っているのです。

f:id:yburaritabi:20181118102235j:image(資料画像です)

   直接拝観できない須弥壇には、

   中央に本尊釈迦如来、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像が安置されています。

   巨大な円柱に支えられた屋根、

   天井には今尾景年作の幡龍。

   金網越しに暗い堂内を覗きました。

   禅寺にある天竜の図は見えましたが、本尊は確認出来ませんでした。

   ともかく本尊の釈迦如来像のある方に向かって手を合わせました。祈り

 

法堂を離れます。 

   法堂を出て左方向に向かうと、三四十メートル先にレンガ造りの、レトロな構造物が見えます。

   この木造の建築物の中にあってレトロというのも変ですが、

見所チェック‼️

   琵琶湖疎水水路閣です。

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    今言ったように、木造建築の大きな伽藍の傍にレンガ造りの構造物、普通に考えるとかなりの違和感を覚えるはずなのに、実際はそれほどではありません。

    テレビドラマの撮影に使われるお馴染みのものです。

f:id:yburaritabi:20181211085913j:image上の様子です。

    

    京都の地下には豊富な地下水があります。

    伏見の酒、豆腐、水に関わるものはいろいろ有名です。

    でも、時代が産業の時代になると、地下水では間に合わなかったのでしょう。

    首都を東京に奪われた京都はこれにかけました。

    灌漑、上水道、工業用水、水力発電などを目的に、琵琶湖の水を引く、つまり、疏水を計画

    産業の振興を目指したのです。

   その事業主任に、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じたというのだから、驚かされます。

   人事に関して、慣習に捉われなかったんですね。

    建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声があがったそうです。

    当然のことです。

    南禅寺京都五山の中でも別格とされる禅宗寺院なんですからー

    ところが、工事が始まると、南禅寺の三門に見物人が殺到したというのです。

    

   京都を代表する寺院の一つである南禅寺の本堂のすぐ傍にこのようなものを若手に造くらせた感性。

   それを多くの市民が歓迎していたという感性。

   どれも驚きです。

 

   京都の、守るばかりでない、攻める姿勢にも注目しておかないといけませんね。

 

   そう南禅寺禅宗寺院の京都五山の中でも別格なんです。

   そもそも南禅寺は時の天皇上皇の発願により創建された、日本最初の勅願禅寺です。

   建武元年(一三三四年)、後醍醐天皇南禅寺を五山の第一としました。

   ところが、至徳三年(一三八五年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一としたかったんでしょうね。

   金閣寺の義満ですものねー

   そこで、相国寺を第一とすると、南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけるしかなかったんだそうです。

   南禅寺は侵すべからざる存在だった、ということでしょうか。

 

   そんな南禅寺の境内に水路閣を作らせた、やっぱり驚きです。

 

   水路閣にまつわる驚きは、さらにその位置もなんです。

   中門から参道の延長が粟田口で東海道と交わると言いましたが、

   この道の反対方向は大方丈で終わっているんです。

   まず一点は、本堂と水路閣の間にこの道が通っていることです。

   しかも、水路閣をくぐった先に、例の南禅寺の別院で、南禅寺発祥の地の南禅院が石段を登ったところにあるのです。

f:id:yburaritabi:20181211074206j:imageお借りした画像です

見所チェック‼️ー南禅院の庭園に足を踏み入れます。

f:id:yburaritabi:20181118103058j:image(資料画像です)

*南禅院:一般300円/高校生250円/小中学生150円

 

    時代は一気に江戸の昔へタイムスリップ。

    南禅院の庭園は池泉廻遊式庭園で、庭園の中心に曹源池とよばれる二つの池が配されています。

    庭そのものは室町時代以降の武家屋敷に見られる山水庭園で、それはそれで美しいのです。

    でも、ここの特徴は池の向こう岸が急角度に登っていることでしょう。

    そのため視線の前の山が急激に迫っていて、庭園に凝縮された一体感を与えているように思います。

    南禅院が東山の麓に造られたからなのです。

    普通、借景によって庭は遠近感を得ます。

    ところが、南禅院の庭園は借景によって、山の中腹に包まれたような、温かみを手に入れたように感じます。

   素敵な庭でした。

 

見所チェック‼️ー方丈へ向かいます

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*方丈:一般500円/高校生400円/小中学生300円

 

   国宝の方丈は大方丈と小方丈の二つからできています。

   大方丈は安土桃山時代に造られた旧御所の女院御所の対面御殿の建物が下賜され、移築したものです。

   大方丈と渡り廊下で繋がっている小方丈は寛永年間といいますから、十数年後に建てられたもののようです。

   伏見城の遺構とも言われています。

f:id:yburaritabi:20181210073348j:image(資料画像です)

  幾何学的に大小の方丈をつなぐ渡り廊下を包む小さな庭はいいです。

  そして、なにより大方丈の小堀遠州作といわれる、「虎の子渡しの庭」と小方丈の「如心庭」、

  二つの枯山水庭園があります。

  この旅行ではここの他にもいくつかの枯山水を見ましたが、見れば見るほど、私は龍安寺の石庭が見たくなるんです。

   説明を聞くと、枯山水になんらかの意味を付与しようとすることが多いし、そう見るのが正しいと思えるものばかりで、南禅寺の方丈の枯山水もそうでした。

   枯山水の見方は果たして本当にそれでが正しいのか、龍安寺の石庭を見て確かめたくなったのです。

   このときも、翌日、龍安寺に出かけました。


襖絵

  大方丈を巡る廊下を歩きます。

  大方丈には六つの部屋があって、仏間を除く各室に桃山時代狩野派の障壁画があります。

f:id:yburaritabi:20181118103228j:image(資料画像です)

   仏間を除く各室に桃山時代狩野派の障壁画があります。

   全部て124面で、いずれも重要文化財に指定されています。

   旧御所を移築したものですだから、これだけの障壁画があるんですね。

 

   襖絵というものは不思議なものです。

   現代の画家が描いた襖絵を何度か目にしたことがありますが、

   私の目には、絵の良し悪しは別にして、これらはたいてい絵画に偏りすぎて、うるさい感じがします。

   どうも、襖絵は単なる絵画ではない、という思いに駆られます。

   ではインテリアの見地から、装飾か、と見ると、単純にそうでもないのです。

   襖絵には、絵画とデザインの中間的な性格があるのかなぁと思ったりもします。
   では、どうすればいいのか。

   それはたぶん、現代の私たちが慣れてしまった創造性を控えることじゃないかと思うのです。

   襖絵は題材や絵画手法が必要以上に人の目を惹いてはならないのではないでしょうか。

   かといって、まるで無視されても困ります。

   そのためには、確かな技法で人々の見知った題材が確実に描けていなければならない、

   職人技ですね。
   狩野派の襖絵はあれだけ派手な構図を持ちながら、まるで邪魔にならず、部屋の雰囲気を盛り上げているのです。

   一種独特の絵画です。
   秀吉が好んだ琳派の絵画は、狩野派以上にデザイン的です。

f:id:yburaritabi:20181201081809j:image(資料画像です)

 

見所チェック‼️ー湯豆腐

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*調べた限りでは、2400円〜3800円


    南禅寺の帰りに、参詣道の両脇に立ち並ぶ湯豆腐の店のひとつに立ち寄りました。

    湯豆腐は南禅寺周辺参道の精進料理が起源とされています。

    湯豆腐はもともと僧侶の精進料理でしたが、参詣道筋の茶店がこれを元にアレンジして作り上げたのが湯豆腐という料理だそうです。

    これが、江戸時代のころ北前船に乗って京都から西廻り航路で広まったというのです。

   名物にうまいものなし、とよく言いますが、ここの湯豆腐は違っていました。

   固めの絹ごしを昆布出汁の中で茹で、それを薬味をたっぷりいれた、少し甘めの醤油ダレで食べます。

   あまり強すぎない豆腐の風味がタレで増幅されるような感じなのです。

   副菜に京都のおばんざいや漬けものを箸休めにつまみながら、なるほど湯豆腐は十分メインのメニューになっていると思いました。

    ごちそうさまー

 

 

 

化野念仏寺 ぶらり

   

    祇王寺を後にして、この日の最後の目的地は化野念仏寺です。

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   立ち並ぶおよそ八千体の石仏や石塔を見ていると、なにか重いものを感じます。

 

   「化野」と書いて「あだしの」と読むんですね。

   「あだし」とは「はかない」とか、「むなしい」という意味だそうです。

    なんとなく好きな響きです。

と思っていたら、吉田兼好の「徒然草」の文に「あだしの」は出てきていたんですね。

    高校生の頃の記憶で、親しみを感じていたのかもしれません。

「あだし野の露消ゆるときなく、‥世はさだめなきこそ、いみじけれ」

   吉田兼好は、化野を世の無常に例えていました。

   この化野という場所は昔から亡くなった人を弔う場所でした。

   京都には、ほかに鳥辺野と蓮台野と風葬の地がありますが、「…野」という地名がそれを表しているそうです。

   でも、兼好はそんな場所を忌み嫌うのではなく、「いみじけれ」、つまり、素晴らしいと感嘆しています。

   お墓なんて、なんとなく怖い、という思いがする人もいるでしょうが、兼好のように当時の人にとって、死の世界は身近だったということではないでしょうか。

 

実際はどうなのでしょう⁉️

 

   さて、化野念仏寺へ向けて歩きましょう‼️

 

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(お寺のHPからの画像です)

   祇王寺を出て、一旦、小倉山裾野周回道(私が勝手に名付けました)に戻ります。

   そして、周回道に出たら北方向に化野を目指します。

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    緩い上り坂、古の人々は亡くなった身内の遺体を担いで、この道を歩いたのかー

    この地はよほど人里離れた場所だったのでしょう。

    今、そんな面影は、通りを歩く限り見当たりません。

見所チェック‼️

    この辺りは今は嵯峨鳥居本(さがとりいもと)と言われ、「化野」はその古い地名なのです。

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   嵯峨鳥居本にはこんな街並みが続いています。

   この町並みはこの先にある愛宕神社の鳥居前町として発展したもので、瓦屋根の町家風民家や茅葺きの農家が軒を連ねている国指定の保存地区なんです。

    この辺りから愛宕神社辺りまでの街並みも、保存館もあるそうなので、じっくり見てみたいのですが、今回は時間的にちょっと無理そうです。

    またの機会にー

と思っていると、不意に左手、つまり、山の方へ逸れる、石段に出くわしました。   

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    化野念仏寺の参道です。

大人500円/中学、高校生400円/小学生以下(保護者同伴に限る)無料

 

    境内に入ると、概ね全体を見渡せるほどのお寺なので、案内は必要なさそうですが、

    とりあえず、参拝順に歩きましょう。

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    すぐに苔庭が見えます。

見所チェック‼️

    ここにも数体の石仏がありますが、まだ疎ら。

    真ん中辺りに大きな石を真ん中に三つの石が見えるでしょうか。

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    逆光でない、ちゃんとした画像をお借りしました。

    石の阿弥陀三尊というものだそうです。

 

    苔庭から仏舎利塔をぐるっと回ると本堂への通路に出ます。

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    左手に近年建てられたと思われる墓地、右手の墓地の向こうに西の河原という石仏群。

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見所チェック‼️

    正面の建物の奥が本堂です。

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    本堂には阿弥陀様がお座りになっています(運慶の長男の湛慶の作だという話があります)。

    優しいお顔の阿弥陀様です。

    静かに手を合わせました。祈り

    

    この地は初めは風葬の地だったという話はしました。

    それが、後年、土葬となり、埋葬した場所に石仏が作られたのです。

    境内にある多くの石仏、石塔は長い年月の間、化野一帯に葬られた人々のお墓だそうです。

    こうして庶民は身近な人との別れを悲しんだんですね。

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歴史です。

    化野念仏寺に伝えられているところでは、

    弘法大師空海弘仁年間(八一〇~八二四)、野ざらしになっていた亡き骸を憐れんで、化野の地にお寺を建てたのがはじまりだそうです。

    そのころ、空海は今の神護寺である高尾山寺に滞在していたのですが、化野の荒れように心を痛めたのでしょう。

    でも、この日の前日、私は高尾から嵯峨野に戻ってきましたが、バスで三十分はゆうにかかりました。

    この距離を歩いたんですから、空海さんも大変だったと思います。

    それとも高尾山も嵯峨野も嵐山も、愛宕山系とその裾野、ということで、当時の人は一体に考えていたのでしょうか。

    それはともかく、化野に来た空海さんはこの地の全景に注目したようです。

    真ん中を流れる曼荼羅川を挟んで、東に小倉山、西に曼荼羅山が控えています。

    そこで空海真言密教の根本原理、金剛界を小倉山、胎蔵界曼荼羅山に見立てて千体の石仏を埋めました。

    土葬の習慣を中国からもたらしたのが空海だと言われています。

    さらに、曼荼羅川の河原に五智如来を立て、「一字を建立」とありますから、五智如来を覆う堂宇を建てたのでしょうね、これを五智如来寺と称したのだそうです。

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空海が創建した東寺の講堂の立体曼荼羅の中央にある五智如来像ですー資料画像)

   五智如来を建立した、というのはなかなかの力の入れようでしょう。

   五智如来(ごちにょらい)は五大如来ともいい、

   大日如来に備わっている五つの智慧(物事の真理を正しく理解し、見抜く力)を五体の如来にあてはめて、中央に大日如来、その周りに不空成就如来、阿閦如来宝生如来阿弥陀如来を配して祀ります。

    言ってみれば、真言宗の根幹の力を化野に散乱する遺体の供養に当てたのでしょう。

    化野に散在していた亡き骸に空海がどれほどの哀れみを感じたかが想像できるようです。

 

    その後しばらくは化野の情報はありません。

    平安時代、仏教は基本的に皇族や貴族のもの。

    祇王の悲恋も、当時の多くの庶民からすれば恵まれていたとも言えそうです。

    化野での土葬も広まって、供養の石仏や石塔が一つまた一つと増えていっていたことでしょう。

    でも、まとめ役がいたとは思えません。

    案外と荒れ果てていたんじゃないでしょうか。

    仏教が庶民のものにもなるのは、鎌倉時代を迎えてからでしょう。

    だとすれば、庶民の仏教の代表格、浄土宗、法然の出番です。

    法然は、二時間前にいた二尊院にもその足跡を残していますね。

    延暦寺の弾圧から法然の遺体を守るため、知恩院から二尊院まで千人の武士や僧侶が付き従ったという話です。

 

    話はまだ法然が生きていたときです。

    浄土宗が延暦寺とトラブった頃、法然がその弾圧から逃れて、化野に念仏の道場を開いたそうです。

    すると、ここに多くの念仏衆が集まってきました。

    当時の念仏衆は、延暦寺が弾圧するほど恐れていたわけですから、相当な勢いだったと思われます。

   そのとき、五智如来寺は名を改め、念仏寺となったのです。

   ちょっと疑問はあるのです。

   五智如来寺の位置と今の念仏寺の位置が一致しないような気がするんですがねー

   まあ、ここはこれでよしとしましょう。

   江戸時代になってからですね、正徳二年(一七一二年)に本堂に本尊の阿弥陀如来像が安置され、再建された、とありますからー

   室町時代もやはり荒れたんでしょうね。

 

   さあ、これで石仏たちも安泰か、と思いたいのですが、そうもいかなかったようです。

   ともかく長い年月がたっています。

   その間に石仏も無縁仏となって、化野の山野に散らばったり、土に埋まったりしていたと伝わっています。

    動きがあったのは明治も中期になったころです。

    地元の人々の協力などもあって、石仏や石塔が整理されたとのことです。

   そのときに賽の河原に習って「西の河原」と名付けられたのです。

 

フッ、長い歴史でしたー

 

見所チェック‼️

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    境内ぐるっとを一回りして、西の河原に入ります。

    鐘楼の下をくぐると西の河原です。

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   膝の高さほどもない小さな石仏や石塔が整然と並べられています。

   写真のように通路があって、ずっと巡ることができます。

   歩いている人はあまりいません。

   周囲には結構な人がいるわりに、ここにはあまりいません。

   人の死と関わる場所なので敬遠しているのでしょうか。

   でも、石仏も石塔も静かですよ。

   長い年月風雨にさらされて、どの石仏も多分元の姿をとどめていません。

   それがむしろ、人の息遣いが時の流れの中に溶け出したように感じられます。

   結構、ニュートラルです。

   生きているこちらの側の迷いをじっと黙って受け止めているような気がします。

   大丈夫だよ、ってね、例えばー

   感動的でしたー

 

見所チェック‼️

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    毎年八月二十三、二十四日の両日には、境内にあるおよそ八千体の石塔、石仏に灯を供える千灯供養が行われます。

    幻想的な雰囲気ですね。

    今度はこの時期に来てみたいですね。

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     紅葉のころには、石仏が鮮やかに色づいた紅葉に囲まれるんですね。

     先ほどの私の写真と似たような角度の写真ですが、紅葉があるとずいぶんと違います。

     ここを訪れた十一月初旬は、まだ早かったようです。

見所チェック‼️

f:id:yburaritabi:20181206083246j:image(資料画像です)

    本堂の脇から竹林に入れます。

    きれいな眺めです。

    ただ私が訪れたときは

今般「庫裏」改築工事を行うこととなりました。 工事中、安全の為に「竹林の小径」を閉鎖します。

    ということで入れませんでした。

    いつから入れるのか、今(2018年11月3日)の時点では不明です。

お寺のHPでご確認ください。

 

祇王寺 ぶらり

常寂光寺を出て、二尊院を通って祇王寺に向かう道は小倉山の裾野をやや遠巻きに通っています。

お寺は総じてこの道から少し山方向へ入ったところにあります。

少し土地勘ができてきたみたいです。

地形と道路の仕組みがわかると、歩いていても楽です。

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今歩いている道はやがて二つに分かれて、そこを左方向、つまり、山の方へ曲がると祇王寺へ直行、こんな道筋が描けますからね。

それにしても、小倉山の裾野に点在する観光地を結ぶこの道は観光向けによく整備されています。

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歩きやすい舗装路になっていて、歩行路も左右はっきりと分けられています。

反対方向を行く人と滅多なことではぶつかりません。

それに、この道に沿って、お土産物屋やレストラン、カフェが並んでいて、便利です。

 

すこし腹が減ってきたんですが、帰りの新幹線の時間もあるので、あまりのんびりはできません。 

お店は素通りして、歩き続けました。

ただ、歩き続けた、とは言っても十分足らず。

やがて祇王寺へと折れる道にきました。

ここから山に向かって左に曲がります。

徐々に木々の数が増えてきて、緑色の影が道を覆い始めました。

そんな緑色の景色の中にふと祇王寺の表示が見えました。

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表示の先を行くと、入り口、出口が竹塀で遮られ、細かく分けられています。

 

狭い空間です。

観光客が右往左往。

そこを抜けてようやく祇王寺の中に入りました。

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寺とは言っても、伽藍もなければ、そもそも境内と言えるものがありません。

草庵がひとつあって、その前に庭がある、これだけ。

鬱蒼と茂る樹木に覆われて、晴れの日の昼間というのに、薄暗い。

隠棲の場、という方が合ってますね。

 

祇王寺の名になっている祇王のことをおさらいしてみましょう。

 

もともとここは、浄土宗の良鎮という僧侶が創建した往生院というお寺だったそうです。

のちにこの寺は荒廃し、そこに白拍子祇王が母親と妹といっしょに入りました。

平家物語』で有名な話です。

平清盛の寵愛を受けていた白拍子祇王

そこに、仏御前という若い白拍子があらわれます。

清盛は最初、祇王の手前、仏御前に会おうとしませんでした。

ところが、事もあろうに、祇王が間に入ったのです。

彼女の取り成しで、仏御前は清盛の御前へ。

清盛は仏御前を一度に気に入ってしまいます。

清盛が心変わりをしたんです。

祇王の若い仏御前への気配りが仇となった形です。

すでに無用とされた祇王は追われるように都を去り、母、刀自と妹の祇女とともに出家、往生院に入寺したのです。

ここが尼寺、祇王寺となりました。

しばらくのち、祇王のもとにふと仏御前が現れれます。

いつかは自分も祇王と同じ運命を辿るかもー

世の無常を感じた仏御前が祇王のもとで出家しました。

平家にあらすば、人にあらず

栄華を極めた清盛の周辺で起こった悲恋の物語として、平家物語で語られています。

仏御前がやってくるところが、泣かせますね。

f:id:yburaritabi:20181127122611p:image(資料画像)

宝筐印塔、母刀自、比丘尼智照の墓が祇王寺の入り口附近にあります。

 

庭園は中央に苔に覆われた苔庭が広がり、これを周遊する小道が苔庭を囲っています。

小道を歩く。 

中央の苔庭にも木立ちが幾本も立っていて、その枝葉の間から草庵が見え隠れします。

木漏れ日が美しいー

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苔庭の苔は分厚い絨毯のようです。

やや下り斜面で、アンジュレーションの多い苔庭。

そして、木漏れ日ー

緑一面の苔に複雑な陰影をつけて、見ていて少しも飽きません。

私は先に進むのを惜しむかのように、ゆっくりと歩きました。

入り口の辺りはあれだけ混雑していたのに、こちらまで来る人は少ないのか、小道を歩く人はまばらです。

周遊の小道から逸れる道がありました。

その道に誘い込もうとするのか、茅葺の屋根を載せた、詫びれた雰囲気を醸す門があります。

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この先に控えの庭ともいうべき小さな庭があります。

ここもミニチュアの苔庭になっています。

ここは斜面の一番下にあるので、振り返ると、草庵は小高い丘の上にあるようです。

この景色も一興ですよ。

ぐるっと回って、また元の小道に戻りました。

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敷地の外の竹林が美しい。

まもなく苔庭を一周。

どんなにゆっくりと歩いても、十分とはかかりません。

そこにあるのが草庵です。

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上がると仏間があります。

f:id:yburaritabi:20181128081227p:image(資料画像です)

仏壇には祇王の物語の四人の主役が祀られ、その中央に本尊の大日如来

平清盛の像はあるが、仏壇の仕切り枠板に隠れているそうです。

隠されているのかもしれません。

手を合わせる 祈り

奥にあと一間がりますが、これで全て。

f:id:yburaritabi:20181128210049j:image(資料画像です)

奥の間、これが控えの間だそうですが、ここに大きな窓があります。

吉野窓というんだそうです。

この複雑な格子が外の景色の形を曖昧にして、季節の色だけを室内に招き入れる仕組みでしょうかー

ともかく直射日光をすべて遮る祇王寺です。

ここでも、ここまで上がる人は少ないらしく、草庵の中には私を含めて数人しかいません。

ゆったりと、静かな時が流れていました。

 

祇王寺のその後

往生院、いや、祇王寺はだんだんと廃れて、明治時代の初期に一時廃寺となったそうです。

しかし、命脈はつながっていたんです。

墓と仏像を大覚寺が保管していたそうです。

やがて、祇王の物語は人々を動かし、再建の動きが現れます。

明治二十八年、京都府より嵯峨にあった別荘一棟が寄付され、保管されていた墓と仏像が戻され、現在の草庵となりました。

明治三十八年、真言宗大覚寺派の寺院となり、今では旧嵯峨御所大覚寺塔頭寺院だそうです。

 

近年では、庵主の智照尼が瀬戸内寂聴の小説『女徳』のモデルになったり、フォークソングの歌詞に歌い込まれて、名が広まりました。

 

紅葉の盛りの頃の画像を出そうかと思ったのですが、先週末(2018年11月24〜25日)の嵐山の混雑ぶりをニュースで見ると、この時期に訪れてよかったのかもしれないとも思いました。

 

緑の紅葉に囲まれて、静かに佇む祇王寺はなんだかとても良かったですー

 

祇王寺から少し山の方へ入ると、滝口入道と建礼門院の侍女横笛の悲恋で知られる滝口寺があります。

往生院の子寺だった寺です。

ここの紅葉も有名なのですが、今回は時間の関係で、見送るしかありませんでした。


 

二尊院 ぶらり

二尊院

   常寂光寺の山門を出てまっすぐの道を歩くと、再び視界の開けた落柿舎を望む場所に出ます。

   ここを左手に向かって歩きます。 

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   二尊院は前々から訪れてみたかったお寺。

   木立に囲まれた気持ちのいい道をワクワクしながら歩きました。

   すると、女子高生風の女の子が自転車に乗って、すごいスピードで通り過ぎました。

   浮かれ気分の観光客の前を日常の緊張が切り裂くように走って行きました。

   これも京都なんですね。 

 

   やがて二尊院の総門に着きました。

   歩き始めて五分ほどだったと思います。

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   人気の観光地らしく、外国人も多い。

   さて、二尊院の説明を詠んでみることにしましょう。

 

二尊院(にそんいん)とは、二尊院ではないそうです。

フルネームは、小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)。

二尊院は略称なんですね。

本尊が釈迦如来立像、阿弥陀如来立像の二如来像だからだそうです。

 

紅葉の馬場

総門をくぐって目の前に現れる参道、

紅葉の馬場と呼ばれているのが、これです。

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両脇の紅葉が参道を覆い尽くさんばかりです。

ちょっとお寺のHPから画像をお借りしましょう。

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何度も言って申し訳ないんですが、あと二、三週間たてば、こうなるんですね。

参道はいったん下って、また登ります。

よくある演出です。

空間を広く見せようということなんでしょう。

でも、あざとい感じはしません。

もしかすると、ここはもともと下りの緩斜面だったのかもしれません。

自然な、というよりそれとは感じない下りなんです。

 

🍁紅葉の二尊院のイメージを代表する景色ですよね。

もう一度、紅葉の馬場を振り返って見ました。

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やはりゆったりとして、穏やかで、優しい参道です。

参拝者を迎えるお寺の気持ちの表れ、などというと穿ち過ぎでしょうかー

 

さて、再び身体を進行方向へ。

目の前に石段があります。

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ここも木立の枝葉に覆われています。

グッと見上げる先に本堂です。

 

これも寺の威厳を示すための演出なんでしょうかー

なんでしようけど、その威厳が人を包み込むように優しいんです。

威圧しないところに魅力があります。

 

石段を登り切っても、本堂はまだありません。

左手に曲がります。

すると、そこにあるのが勅使門です。

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勅使門をくぐれるとは珍しい。

勅使門はそもそも天皇の使い、つまり、「勅使」が出入りする際に使われていた、大きく波打つようにうねる「唐破風形」の屋根の格式高そうな門。

今は誰もが通ることができるらしいんです。

 

ちょっといい気分で門をくぐると、本堂とその前庭が目の前に現れます。

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二尊院平安時代初期の承和年間(八三四–八四七年)、嵯峨天皇の勅願で第三代天台座主(円仁)が建立したのがはじまり。

大覚寺嵯峨天皇が出てきましたね。

それに、天台宗天台宗といえば、最澄比叡山延暦寺

日本仏教の老舗です。

以後、一度は荒廃したそうです。

ところが、鎌倉時代初期に法然の高弟の湛空により再興されました。

当初、比叡山を出て浄土宗を開いた法然上人がここで法を説き、多くの信望を集めたそうです。

天台宗の寺に浄土宗がやってきたんです。

大丈夫でしょうか?
さらに法然の弟子、湛空、叡空が十二世紀から十三世紀にかけての六人の天皇の戒師(仏門に入るときに戒を授ける師僧)となり、二尊院は栄えました。

浄土宗の一派、嵯峨門徒の拠点ともなりました。

天台宗なのか浄土宗なのかー

やっぱりトラブりました。

嘉禄三年(一二二七年)、天台宗による新興の浄土宗の弾圧、嘉禄の法難

知恩院にあった法然上人の遺骸を天台宗の僧兵から守るため、僧侶や武士千人で二尊院まで移送された、などというエピソード。

あんなこんなの歴史はありましたが、江戸末期からは天台宗に落ち着いたようです。

 

室町時代、ここもご多聞に漏れず、応仁の乱で堂塔伽藍が全焼、その三十年後に本堂と唐門が再建されました。

こもときは全面改修がおわったばかりで、ラッキーでした。

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(資料画像です)

二尊院の名の由来にもなっている阿弥陀様、お釈迦様の二つの立像に手を合わせました。祈り

心なしかお二人がお互いの方に少し身体を向け合っている様子に穏やかさを感じます。

 

この日は、別料金ですが、春と秋の一時期だけ開放されている茶室「御園亭」に入りました。
本堂の隣にある書院の奥にあります。

江戸時代初期の天皇後水尾天皇の第六皇女、賀子内親王の御化粧之間だったものが二尊院に移築され、茶室とされているんです。

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瀟洒な違い棚や繊細な欄間、シンプルな床の間など、もとは皇女のお部屋、品の良さを感じます。

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御園亭の拝観料に付いた抹茶のサービス。

うれしいー

茶室で抹茶をいただきながら、しばし茶室と美しい庭を眺めて、往時のセレブが楽しんだ、ゆったりとした時の流れのお裾分けを楽しみました。

 

本堂を出る

本堂の前を横切り、弁財天堂の向こう鐘楼があります。

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しあわせの鐘、というんだそうです。

自由に撞いてもいいそうなので、わずかばかりの浄財を捧げて、思い切り鐘を撞きました。

私の前に撞いた人はしばらくの間なかったのか、こんな鐘の音は二尊院に入ってから、一度も耳にしなかったんですがー

その音が長く小倉山の麓に流れ始めました。

ずいぶんとながいような感じー

 

どのような幸せがくるのか、楽しみです。

 

このしあわせの鐘と弁財天堂との間の石段を登ることにしました。

この石段は整備されていますが、かなり険しい。

ここで始めて、ここが小倉山の麓で、この石段が小倉山の斜面伝いにあることを感じました。

 

この石段を真っすぐに登った先に待ち受けるのが「湛空廟」。

二尊院で教えを広めた僧、浄土宗の湛空上人の碑が収まっているのです。

ここは小倉山の中腹にあたり、やや広くなっている、景色のいい、気持ちのいい場所です。

右手方向へ行きます。

ここに角倉了以をはじめとする角倉家の墓所角倉了以については、「常寂光寺 ぶらり」をご覧ください)があります。

因縁のある常寂光寺ではなく、二尊院墓所があるというのは、何如?

やはり、二尊院の方が老舗だからでしょうかー

 

まっ、いいやー

今度は、左手方向へ行ってみよう。

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あれっ、道を間違えたかな、と思うほど意外に長い山道を行くと、やがて開けた場所に出ます。

ここが定家邸のあった場所の候補、二つ目の時雨亭あとです。

ここからの景色もなかなかのもの。

なにか一首、と浮かんだのが、

 

このたびは   幣もとりあえず   手向山   紅葉の錦   神のまにまに    官家

(今回は、いや、今回の旅は急のことでしたので、道祖神に捧げる幣(ぬさ)を用意できませんでした。その代わりと言ってはなんですが、錦のような手向山の紅葉を捧げますので、御心のままにお受け取りください。ー宇多天皇の吉野行幸の折に道祖神への供物を忘れてきたことを、菅家、つまり、学問の神様、菅原道真が詠ったと伝えられている)

 

この日は土曜日なのに、時雨亭あと付近にはほとんど人を見かけませんでした。

意外に穴場なのかもー

 

 

常寂光寺 ぶらり

   落柿舎を出て、ものの五分ほどで常寂光寺に着きます。

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   ここは小倉山の麓です。

   小倉山というと、小倉百人一首ですね。

 小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

(小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるなら、もう一度行幸があるまで、散らずに待っていてくれ)

   七〇九年の秋、宇多法皇が嵯峨野へ行幸した折、あまりの紅葉の美しさに感激

   「息子の醍醐天皇にも見せたい」

   法皇の気持ちを供をしていた藤原忠平が詠んだのがこの和歌

(「小倉百人一首」では「貞信公」となっていますが、藤原忠平のこと)

    ともかく、小倉山は、歌枕(和歌の題材とされた名所)としてたびたび登場します。

    嵐山、嵯峨野は皇族や貴族の別荘地。

    小倉百人一首の選者、藤原定家の別荘があった小倉山。

    桜の嵐山、紅葉と鹿の小倉山、などと言われたそうです。

    小倉山へと人々を引き込むようなまっすぐの参道の奥に常寂光寺の山門があります。

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    ここが小倉山の世界への入り口です。

    山門の向こうにもまっすぐの細い道が見えます。

山門をくぐる

   少し登り坂になっているその道を前に進みます。

   だんだんと常寂光寺の世界に入り込んでいく気がします。

   この先にあるのが仁王門です。

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    門としては珍しい茅葺きの屋根を持ち、運慶の作という仁王門像が収まっています。

    でも、あまり気にも止めずに、門をくぐりました。

    すると、目の前に急な石段が待ち構えています。

    おそらく仁王門があるのはこのためなのでしょう。

    いわば、小倉山の一合目の始まりなんです。

    でも、登るのに特に苦労するような長さではありません。

    むしろ石段の両脇の斜面を覆う美しい苔の絨毯に目を奪われます。

    苔が一面を覆ったここの様は一見の価値がありますね。

    気を取られているうちに、石段は終ってしまいます。

   そこに本堂が待っていました。

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    視界を遮るように覆い被さる丈の低い木立ちの枝葉の先に本堂があります。

    あと二、三週間もすれば、本堂周辺は紅葉に包まれるのでしょう。(この日は2018年11月3日)

 

     時代は安土桃山の頃の話。

    京都六条堀川の本圀寺第十六世の日禛上人、この人は和歌にも優れた人だったようです。

    文禄四年 (一五九五)、秀吉への対応をめぐって京都の本山が二派に分裂したんだそうです。

    このとき、上人は一派の本筋を貫いて反対しました。

    これがきっかけになって、上人は本圀寺を出ることになったのです。

    そこに助け船を出したのが、かの京都の豪商角倉了以一族でした。

    小倉山は古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆかりの地であることは、今更言うまでもないことですよね。

    そんな小倉山一帯の土地を当時所有していたのが、高瀬川開削で名を上げた角倉了以に連なる一族だったのです。

   この角倉一族が日禛上人に寺の敷地として、この地を寄進したのです。

   和歌の古里ともいうべきこの地を寄進されて、日禛上人が断るはずもありません。

   以後、日禛上人はこの地を隠棲の地としたのです。

   ここから日蓮宗小倉山常寂光寺は始まりました。

   現在の本堂は、第二世日韶上人の代に、桃山城客殿を移築して本堂としたもの。

   お寺といえば、皇族、貴族が関わっているものだとばかり思っていたら、まもなく江戸時代を迎えるこのときに、民間の財力が関わってきたとは象徴的だと思いますねぇー

   角倉了以と小倉山、二尊院に角倉家の墓所があるんです。

 

妙見堂

    本堂を真ん中に右に鐘楼、左に妙見堂があります。

    妙見堂に祀られている妙見菩薩

    北極星または北斗を象徴した菩薩様だそうです。

    菩提を求める衆生が菩薩ですが、妙見菩薩はその菩薩の中でもランクが上みたいです。

    国土を守って、人々を死の苦痛から救い、富をもたらす存在でもあるんですね。

    結構、世俗的なメリットを持った神というか、仏というか、人みたい。

    中世のころは地方の豪族の守護神

    近世のころは大衆の信仰の対象

商業繁栄、安産、子孫繁栄、良縁恵与の御利益

    どことなく庶民的な雰囲気の菩薩様

    妙見堂は江戸時代に本尊とお堂が整い、今に至っているそうです。

    

意外にも常寂光寺には庶民的背景がチラホラ

 

    細い参道を通って山門に至り、まだ細い参道が続き、仁王門。そこから急な石段ー

    その上に本堂、鐘楼、妙見堂ー

    空海が作った東寺の立体曼荼羅ならぬ、立体境内とでもいいましょうかー

    小倉山の斜面に階層になって常寂光寺は作られているんです。

一つ目の階層は仁王門、二つ目は本堂。

さて、三つ目の階層はなんでしょう。

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   少し曲がりくねった石段を登ります。

   まもなく次の階層に到着です。

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    ここは多宝塔を真ん中に開山堂と藤原定家藤原家隆像が納められている歌仙祠(かせんし)と時雨亭あと。

    まずは多宝塔を見て見ましょう。

    多宝塔はさらに石段を登った高所にあります。

    それほど大きな建物ではないのですが、石段の下から見上げると、なかなかの迫力です。

   「法華経」    

    霊鷲山でお釈迦様の説法をしていると、突如現れた塔、これが多宝塔です。

    中にはお釈迦様の説法に感激した多宝如来がいて、お釈迦様を招き入れ、二人の如来が並んで座したという話です。 

    空海高野山の根本大塔 も、ここの大先輩にあたる多宝塔です。

    お寺の説明によると、常寂光寺の多宝塔は桃山から江戸時代へ移り行く気配を感じさせるものだそうです。

    多宝塔前の石段の下からでも、上階層へ向かう途中、木々に見え隠れする上から見ても、なかなか美しいお堂です。

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    常寂光寺を代表する伽藍ー。

 

時雨亭跡

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来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身も焦がれつつ

(いつまでたっても来てくれない恋人を我が身を焦がすほどに待ち焦がれているー「松帆」に「待つ」を、藻塩作りの火を入れる時の焦げた匂いに待ちわびる心を掛けているんですねー)

    定家が百人一首の最後に入れる自分の和歌を選びかねていたとき、お付きの女官がこの和歌を選んだそうです。

   説明ではよくわからないんですが、どうやらここには藤原定家の御神像を祀る祠があったようなのです。

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   定家邸跡というのは、それを示す石標がこの境内のずっと下の方の、写真のような道の途中にありました。

   ともかく、定家邸がどこにあったのか、正確なところはわかっていないようなのです。

   今のところ候補には、ここ常寂光寺と二尊院、そして、このすぐ近くにある厭離庵(えんりあん)という臨済宗天龍寺派の寺院(尼寺)が上がっているとのこと。

    今回は行かなかったけれど、厭離庵というところはいいところだそうですよ。

    

安土桃山流テーマパーク

    常寂光寺には、これまで訪れた寺院にはない、華やいだ雰囲気がありますね。

    いわば、小倉百人一首に詠われる紅葉をメインにした、安土桃山流のテーマパークって感じでしょうか。

    それが時雨亭の近くに展望台です。すごく今風な発想ですよね。

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   ここから京都を見る景色は素晴らしい。

と感心して、たいていここで常寂光寺の案内は終わるのですがー

    じつは、境内の階層はまだ二段上まであるんです。

   一段上がると、また展望テラスがあります。

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   さらに一段上がる。ここも展望テラスなんです。

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   一階層上がることに微妙な違いを見せる景色は一見の価値アリ、ですよ。

   この景色を楽しむ感性は、今の私たちの感性に近いように思います。

   つまり、歴史を考えることなく、素直に楽しめるということです。

 

   これで常寂光寺は終わりです。

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   私は境内の最上層から時雨亭跡まで戻ると、正面には戻らずにそのまま脇を下りる道を選んで竹林の中を歩きました。

    本堂のあるニ階層目まで来ると、今度は正面の石段を横切り、反対側の遊歩道を下りていきました(この途中に定家邸跡を示す石碑があったんです)。

    一時間半ほどの滞在だったでしょうか。

   なかなか楽しめた常寂光寺でした。

   今度は紅葉の盛りの時に訪れたいですネェー

 

落柿舎 ぶらり

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    清凉寺と嵐山はすごく近いところにあります。

    清凉寺を出て参詣道を下る途中、見落としそうな、右に曲がる普通の路地が嵐山への近道です。

    落柿舎➡︎   こんな標識が目印なのです。

    えっ、これでいいの? と思うような住宅街を通ります。

    余計なことかもしれませんが、普通の住宅地の道でさから、観光気分のテンションでは住民の皆さんには迷惑かもしれませんね。

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    まもなく視界がこんな風に開けます。

    すると、すぐに落柿舎の建物が見えます。

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    落柿舎(らくししゃ)は、松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘だった建物。

    茅葺きの質素な民家です。

    芭蕉もなんどか訪れて、その滞在の記録を『嵯峨日記』として残しています。

    今回の旅行では、高山寺の遺香庵を見学しましたが、こういう田舎家タイプの建物は好きですね。

    しかも、ここは茶室と違って、かまどや流しなど、日常生活の匂いがするんです。

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「元禄四年四月十八日、嵯峨を散策して去来の落柿舎に着く。凡兆が一緒だったが、夕暮れに京に帰る。私はなおしばらく滞在することになっていたので、…建物の片隅の一間を寝床とした。部屋には、机一つ、硯、李白の文集、大鏡源氏物語土佐日記などが置いてある。そのほか、菓子が盛られた蒔絵の器、名酒一本。夜寝る布団や副食物などは京から持ってきているので、貧しい感じではない。わが身の貧しく賤しいことを忘れて、清らかで落ち着いた気持ちを楽しむ。」

    ちょっと長くなりましたが、「嵯峨日記」の冒頭の現代語抄訳です。

    芭蕉が旅の話を肴に様々な客人と酒を酌み交わしたり、雑魚寝をしたり、あるいは、皆が立ち去ったあとの庵でひとり書を読んだり、ボンヤリとするー

   そんな日常を知るだけに、この庵が愛おしく感じられます。

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    去来は、貞享二、三年(一六八五- 八六年)ころに、嵯峨野に庵を入手したそうですが、その当時の庵の正確な場所は分かっていないそうです。

    現在の庵は、去来の親戚の俳人、井上重厚が一七七〇年に、弘源寺というお寺の跡地に再建したものです。

    「落柿舎」という名前の由来は、去来が書いた『落柿舎ノ記』によると、

「庵の庭には40本の柿の木があり、日頃去来は人にこの庵の管理を任せていた。ある時(1689年(元禄2年)頃)、去来がちょうど在庵中に、都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文を出して買い求めたので、去来は売る約束をして代金を受け取った。しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまった。翌朝来た老商人がこの有様に呆然としつつ、代金を返してくれるよう頼み込み、去来はこれを不憫に思って柿の代金を全額返した。この老商人が帰るにあたって去来は友人あての手紙を託し、その中で自ら「落柿舎の去来」と称したという。」(wikipediaの「落柿舎」より)

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   柿がそっくり落ちちゃったんだー

   ちょっと風情がないなぁ

などと思いながら、庭を歩いていると、一本の柿の木に一個だけ柿の実がぶら下がっていました。

    柿はたしかにたわわに実って、どっと落ちる、それは去来の書いた通りだと思います。

    しかし、こうしてわずかですが、落ちずに木にしがみつくように残っているものもあるんです。

    どことなく憐れな思いがします。

    あと二、三週間もすれば、嵯峨嵐山一帯の寺社は紅葉に包まれます。

    華やかな紅葉の秋は目の前です。

    しかし、この柿の実はその頃までこうして木にぶら下がってはいないと思います。

    そこで一句

 

落柿舎や  色づく秋に   落ちる柿の実

 

    いかがでしょうか?

清凉寺 ぶらり

   今回は嵯峨野から嵐山をまわるコースの最初のお寺、清凉寺をことを話します。

   京都でもメジャーな観光コースです。

   清凉寺の最寄り駅、JR嵯峨嵐山駅からの出発します。

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    大まかに言うと、嵯峨嵐山駅を出て、大通りを左手へ進むと嵐山、大通りを渡って真っ直ぐに行くと大覚寺に行きます。

    清凉寺大覚寺と嵐山の中間にあります。

    それほど長い距離ではないので、嵯峨嵐山駅から清凉寺まで歩くことにしました。

 

    清凉寺は「源氏物語」と関係が深いんです。

    現在、嵯峨釈迦堂清凉寺のあるところには、もともと嵯峨天皇の皇子で、のちに源氏の姓を受けて皇籍をはなれた源融(みなもとのとおる)の別荘があったところです。

    源融左大臣にまで出世した人物。

    百人一首河原左大臣の歌があります。

「みちのくの忍もじすりたれゆえに 乱れそめにし我ならなくに」

陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。私のせいではないのにーあなたのせいですよ)

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    源融がその河原左大臣なのです。

    宇治の平等院ももともとは源融の別荘あとに建てられたものだそうで、なかなかのセレブだったようです。

    この源融光源氏のモデルだそうです。

    そういえば光源氏も皇子として生まれ、皇籍を離れるときに「源氏」の姓を授かったのでした。

   「源」姓って、興味をそそられますよね。

   ともかく清凉寺に着きましたが、正面の仁王門から入るつもりが、着いた場所は駐車場でした。

f:id:yburaritabi:20181117083817j:imageこれは清凉寺を出てから、振り返って撮ったもの

     結局、駐車場を横切って寺の傍から入ることにしました。

     歩き始めるとすぐに経蔵がありました。

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   この八角のデカイ箱が輪蔵(りんぞう)というそうです。

   これを一回回転させて、経典全巻読了、というわけです。

やってみましたー

   動き始めるまでは重いのですが、動き始めると意外に軽いんです。

   今度は止めるのにちょっとだけ、汗💦

   とろがよく説明を読むと、

   読んだのと同じ御利益(ごりやく)が得られる、と書いてありました。

    全巻読了じゃないんだーそりゃそうですよね‼️

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   さて、本堂だ。まっすぐ本堂の釈迦堂に向かいます。

   案外と庶民的な雰囲気の境内です。

   観光客もちらほら、散歩中の近所の人らしき人もいます。

   創建当初、嵯峨野は市中から離れたところだったのでしょうが、今は結構な住宅街。

   住宅街のど真ん中にあるお寺に変わったからなのでしょうか。

 

   本堂へ上がります。

   本尊は釈迦如来立像です。

   お釈迦様の等身大だそうです。

   説明書を読むことにしましょう。

昔、奝然(ちょうねん 九三八-一〇一六)という東大寺出身の僧がいました。

彼が宋へ渡航中の九八五年のこと。

古代インドから伝わった、お釈迦様の在世中の姿を映した栴檀の木で造らせたという由緒を持つ「霊像」を見て感激したそうです。

早速、仏師に「霊像」を模して釈迦如来像を作らせました。

 

「生きているお釈迦様」

 

お釈迦様に生き写しに仕上がったそうです。

江戸時代には、この釈迦如来立像で各地で出開帳を行なって、寄進を募ったという話も聞きました。

さて、奝然は、日本に帰国後、この釈迦如来立像(「清凉寺様式」)を本尊に、愛宕山麓、高尾山を拠点にした一大宗教施設の創設を考えました。

これが清凉寺になるはずだったのです。

どうやら相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとしたようです。

なかなかの野心家ですね。

ところが、その願いは叶わないまま、長和五年(一〇一六年)に奝然は亡くなりました。

そこで、弟子の盛算(じょうさん)が師の遺志をうけて、現在の地、棲霞寺の境内に建立したのが清凉寺です。

    前にも書きましたが、須弥壇に祀られた仏像を私は、なかなか美術的に見れないのです。

    祈る対象なのです。

    このときは釈迦如来立像のすぐそばまで行ったのですが、今、そのお姿が思い出せないのです。

    ただただ須弥壇まえに跪き、手を合わせました。

 

    須弥壇の真後ろに扉があります。

   ここが、別料金だが、庭園への入り口です。

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    人影かないー     静かー    落ち着きー    

    中之島に弁天堂があり、まわりは池遊式庭園。

    ところどころに色づく紅葉、

なかなかいい庭でした。

    さらに奥には方丈の枯山水の庭園。

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    派手さのない、こじんまりとした庭。

こんな庭を見ながら、気の合う人とゆっくりお茶でも飲みたい気持ちになりました。

 

    本堂に戻ります。

    釈迦堂は、寛永十四年(一六三八年)の嵯峨大火で消失。木造建造物の宿命だね。

    ここに桂昌院が登場。

    徳川五代将軍綱吉の生母は堂宇の再建を発願、元禄十四年(一七〇一)年に上棟。

    釈迦堂の須弥壇の傍に桂昌院が愛用した道具が展示されています。

    顔を洗った桶、手拭いをかける小さな衣桁のようなもの、などなど。

    見たところなかなか手の込んだ作りの物のようです。

    桂昌院というと、私はすべてが小作りの、品のいいおばあちゃんを勝手に想像してしまいます。

    この旅では、西明寺に続いて二度目の登場ですだ。

    これからも何度でもお会いしたいものです。

 

阿弥陀堂

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   現在阿弥陀堂の建っている場所には、もともと、嵯峨天皇の皇子、左大臣源融、つまり、「光源氏」の別荘である栖霞観(せいかかん)がありました。

   源融の一周忌の寛平八年(八九六年)、融の念願だった阿弥陀三尊像をここに安置して阿弥陀堂とし、棲霞寺としたのです。

   その百数十年後に釈迦如来立像がやってきたのです。

   棲霞寺と清凉寺共存の時代。

   江戸時代、清凉寺の釈迦如来立像が模写ならぬ、模刻の像ではなく、インド由来の栴檀釈迦像そのものだ、本物に違いない、と信じられるようになったそうです。

   そうか、だから出開帳まで開かれたんですね。

   こんな風に釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて、人気を集めました。

   一方、本家の棲霞寺はその後もパッとせず、そもそもは棲霞寺の方にあった釈迦堂も今はなく、阿弥陀堂(江戸時代の再建)にのみその名残りをとどめるだけとなりました。

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   しかし、もともと阿弥陀堂に安置され、今は霊宝館にある阿弥陀三尊像、これはとてもいいです。

   阿弥陀様らしい優しさが像全体からにじみ出てくるようです。

   しばらくその前を離れることができませんでした  祈り

f:id:yburaritabi:20181117083922j:image最初の仁王門とは逆で、左脇の駐車場から入って最初に出会った仁王門

   来たときは脇の駐車場からだったので、仁王門はちゃんと見ていませんでした。

   出るときに改めて見ると言うのは順序が逆ですが、仁王門、その先に見える嵐山界隈、なかなかの眺めでした。