アバドのマーラー、今日は3番

マーラー交響曲第3番ニ短調
アンナ・ラーション(メゾ・ソプラノ)/アルノルト・シェーンベルク合唱団/テルツ少年合唱団
クラウディオ・アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団

2007年8月19日(ライヴ)/ルツェルン、カルチャー&コンヴェンション・センター

アバドの指揮は以前から不思議に思っていた。アバドが何をやっているのかが分からないのだ。指揮ぶりもまるで何をどう振っているのか、分からないことが度々だ。

それでいてキチンとした音楽に仕上げる。

アバドの指揮なら、何を聴いてもソツがない、そんな印象を持つほどに。あんなに指揮ぶりがぎこちないのに。

今度、アバドという指揮者について書いてあるものをいくつか読んで、あっ、と合点のいった表現に出会った。

リハーサルでアバドはあまり話さないらしい。言うことといったら、周囲の音をよく聴いて、とかなんとか、こんな言葉だったらしい。

そうなんです、このマーラー、ヨーロッパあちこちのオーケストラで見たソリストが結集したようなルツェルン音楽祭のオーケストラのメンバーが顔を真っ赤にして演奏しているのに、アバドは案外とポーカーフェイス、時折り笑みを浮かべたりする。こんなにまでこれほどの演奏者を本気にさせているところがアバドアバドたる所以、なのだと知った。

3番には大曲の割に緻密な室内楽的部分の結集、といった印象がある。それを横の繋がりで音にしていく演奏者の大元締めなのではないか。

6番でも感じたが、アバドはあまり汗をかいていないのだ。そんなことをどんな風にやっているのか、がやっぱりアバドの指揮の仕方からは読み取れない。

3番とか6番とか、無数のモチーフの絡み合いが魅力の曲では、アバドの良さが特に目立ってくる。

最後に、このコンサートでは、演奏が終わってから、拍手や歓声が起こらない静寂の時がしばらく続く。アバドは指揮棒を下ろした時、ようやくパラパラと拍手が始まり、やがていつ終わるとも知らないアプローズにホールが包まれる。

周りを興奮させて、本人は案外と冷静。

ちょっとアバドがみえてきたように思う。