御室仁和寺 ぶらり散歩

仁和寺

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   仁和寺はシャープな寺である。
   嵐電の御室駅に電車が止まると、改札越しに今の日常に姿を変えた参詣道が真っ直ぐに延び、その先に仁和寺の仁王門が見える。

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   この演出は素敵だ。いや、素敵などと言うと異論があるかもしれないが、今の日常の遠近法的な光景の消失点に位置する仁王門はその桃山様式の華やかさを放って、私たちの視線を昔へと誘い込む。駅を作った人にこんな意識がなかったとは考えにくい。また、宗教とはそのような演出を必要としている。
   私たちはなんの無理もなく、人を強く惹きつける仁王門の魅力に引きずられて、御室の仏の世界に入ることができる。平安時代初期、光孝天皇の死後、その意思を受けて宇多天皇が仁和四年(八八八年)に完成させ、自らの出家後、仁和寺伽藍の西南に僧坊を設けて暮らした。この僧坊が「御室」(おむろ)と呼ばれた。だから、御室仁和寺である。その「御室」もすでに消失し、現在はその場所に御殿が建っている。
   仁王門をくぐると、一気に広大な世界が広がる。門をくぐった者の視線の先に、ほぼ同じ高さに中門が待っている。仁王門と中門が一段高いところに設けられているのだ。だから、中門までの広い白砂の空間は視線の下にある。しかも、それは参詣道というにはあまりに幅広く、まるで広場のようである。しかも、仁王門から白砂の道までやや降り、それから平坦な空間が七、八十メートル続いて、中門の手前に登りの石段がある。まるで白砂の空間はすり鉢のように中窪みになっていて、その仕組みが仁王門から中門までの空間をより広く見せているように思われる。
   この日は九月とはいうものの、日差しの強い、暑い日だった。私たちは日陰のない、目の前の白砂の道をひとまず避けて、左脇の御殿に入ることにした。
   御殿の中の白書院、宸殿、黒書院などをつなぐ渡り廊下は、明治時代の再建ではあっても、桃山時代の様式をモデルにしたといわれる通り、桃山時代らしく幾何学的に複雑に構成され、まるで敵の侵入から身を守る迷路のようである。

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   その渡り廊下の合間合間に設えられた坪庭はそれぞれに魅力的ではあるが、御殿奥にある宸殿北側の庭はその白眉であろう。水路に岩に立木などの配列はもとより、それらが作り出す色彩もくっきりとしたメリハリのある、武家屋敷の伝統を絶対的に踏襲しようとする作者の、匠としての迷いのなさが生む小気味好さで観る者を最初の遭遇から驚かす。しかも、遠景には木立を足下に境内の五重の塔がすっくと頭を出している。その様は伝統の技術が狂いも迷いもなく描き出す桃山の美を代表している。

   それは寺全体にも現れている。仁和寺境内を歩くと、伽藍の配置の的確さ、明確さが手に取るようにわかる。中門をくぐると右手に五重塔、左手に観音堂が平行に置かれている。

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(行ったのは9月、もちろん御室桜は咲いていませんでした。これはイメージです)
   観音堂の手前の御室桜は九月の時期には咲いているはずもなく、残念ではあったが、その分参詣者の数もほどほどで、境内は落ち着いた雰囲気である。さらに進むと、真正面に本尊の阿弥陀如来像を収めた金堂が身構えており、右手には経堂、左手には鐘堂が、これらも平行に並び、鐘堂の奥には、浄土信仰の故か、御影堂がある。

   浄土信仰を元に建てられた寺は基本的に仏の住まう浄土を再現しようとする。仁和寺の整然とした清潔さ、美しさはまさに浄土信仰のなせる技とも言えるかもしれない。