常寂光寺 ぶらり
落柿舎を出て、ものの五分ほどで常寂光寺に着きます。
ここは小倉山の麓です。
小倉山というと、小倉百人一首ですね。
小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
(小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるなら、もう一度行幸があるまで、散らずに待っていてくれ)
七〇九年の秋、宇多法皇が嵯峨野へ行幸した折、あまりの紅葉の美しさに感激
「息子の醍醐天皇にも見せたい」
(「小倉百人一首」では「貞信公」となっていますが、藤原忠平のこと)
ともかく、小倉山は、歌枕(和歌の題材とされた名所)としてたびたび登場します。
嵐山、嵯峨野は皇族や貴族の別荘地。
桜の嵐山、紅葉と鹿の小倉山、などと言われたそうです。
小倉山へと人々を引き込むようなまっすぐの参道の奥に常寂光寺の山門があります。
ここが小倉山の世界への入り口です。
山門の向こうにもまっすぐの細い道が見えます。
山門をくぐる
少し登り坂になっているその道を前に進みます。
だんだんと常寂光寺の世界に入り込んでいく気がします。
この先にあるのが仁王門です。
門としては珍しい茅葺きの屋根を持ち、運慶の作という仁王門像が収まっています。
でも、あまり気にも止めずに、門をくぐりました。
すると、目の前に急な石段が待ち構えています。
おそらく仁王門があるのはこのためなのでしょう。
いわば、小倉山の一合目の始まりなんです。
でも、登るのに特に苦労するような長さではありません。
むしろ石段の両脇の斜面を覆う美しい苔の絨毯に目を奪われます。
苔が一面を覆ったここの様は一見の価値がありますね。
気を取られているうちに、石段は終ってしまいます。
そこに本堂が待っていました。
視界を遮るように覆い被さる丈の低い木立ちの枝葉の先に本堂があります。
あと二、三週間もすれば、本堂周辺は紅葉に包まれるのでしょう。(この日は2018年11月3日)
時代は安土桃山の頃の話。
京都六条堀川の本圀寺第十六世の日禛上人、この人は和歌にも優れた人だったようです。
文禄四年 (一五九五)、秀吉への対応をめぐって京都の本山が二派に分裂したんだそうです。
このとき、上人は一派の本筋を貫いて反対しました。
これがきっかけになって、上人は本圀寺を出ることになったのです。
そこに助け船を出したのが、かの京都の豪商角倉了以一族でした。
小倉山は古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆかりの地であることは、今更言うまでもないことですよね。
そんな小倉山一帯の土地を当時所有していたのが、高瀬川開削で名を上げた角倉了以に連なる一族だったのです。
この角倉一族が日禛上人に寺の敷地として、この地を寄進したのです。
和歌の古里ともいうべきこの地を寄進されて、日禛上人が断るはずもありません。
以後、日禛上人はこの地を隠棲の地としたのです。
ここから日蓮宗小倉山常寂光寺は始まりました。
現在の本堂は、第二世日韶上人の代に、桃山城客殿を移築して本堂としたもの。
お寺といえば、皇族、貴族が関わっているものだとばかり思っていたら、まもなく江戸時代を迎えるこのときに、民間の財力が関わってきたとは象徴的だと思いますねぇー
妙見堂
本堂を真ん中に右に鐘楼、左に妙見堂があります。
妙見堂に祀られている妙見菩薩。
北極星または北斗を象徴した菩薩様だそうです。
菩提を求める衆生が菩薩ですが、妙見菩薩はその菩薩の中でもランクが上みたいです。
国土を守って、人々を死の苦痛から救い、富をもたらす存在でもあるんですね。
結構、世俗的なメリットを持った神というか、仏というか、人みたい。
中世のころは地方の豪族の守護神
近世のころは大衆の信仰の対象
商業繁栄、安産、子孫繁栄、良縁恵与の御利益
どことなく庶民的な雰囲気の菩薩様
妙見堂は江戸時代に本尊とお堂が整い、今に至っているそうです。
意外にも常寂光寺には庶民的背景がチラホラ
細い参道を通って山門に至り、まだ細い参道が続き、仁王門。そこから急な石段ー
その上に本堂、鐘楼、妙見堂ー
空海が作った東寺の立体曼荼羅ならぬ、立体境内とでもいいましょうかー
小倉山の斜面に階層になって常寂光寺は作られているんです。
一つ目の階層は仁王門、二つ目は本堂。
さて、三つ目の階層はなんでしょう。
少し曲がりくねった石段を登ります。
まもなく次の階層に到着です。
ここは多宝塔を真ん中に開山堂と藤原定家、藤原家隆像が納められている歌仙祠(かせんし)と時雨亭あと。
まずは多宝塔を見て見ましょう。
多宝塔はさらに石段を登った高所にあります。
それほど大きな建物ではないのですが、石段の下から見上げると、なかなかの迫力です。
「法華経」
霊鷲山でお釈迦様の説法をしていると、突如現れた塔、これが多宝塔です。
中にはお釈迦様の説法に感激した多宝如来がいて、お釈迦様を招き入れ、二人の如来が並んで座したという話です。
空海の高野山の根本大塔 も、ここの大先輩にあたる多宝塔です。
お寺の説明によると、常寂光寺の多宝塔は桃山から江戸時代へ移り行く気配を感じさせるものだそうです。
多宝塔前の石段の下からでも、上階層へ向かう途中、木々に見え隠れする上から見ても、なかなか美しいお堂です。
常寂光寺を代表する伽藍ー。
時雨亭跡
来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身も焦がれつつ
(いつまでたっても来てくれない恋人を我が身を焦がすほどに待ち焦がれているー「松帆」に「待つ」を、藻塩作りの火を入れる時の焦げた匂いに待ちわびる心を掛けているんですねー)
定家が百人一首の最後に入れる自分の和歌を選びかねていたとき、お付きの女官がこの和歌を選んだそうです。
説明ではよくわからないんですが、どうやらここには藤原定家の御神像を祀る祠があったようなのです。
定家邸跡というのは、それを示す石標がこの境内のずっと下の方の、写真のような道の途中にありました。
ともかく、定家邸がどこにあったのか、正確なところはわかっていないようなのです。
今のところ候補には、ここ常寂光寺と二尊院、そして、このすぐ近くにある厭離庵(えんりあん)という臨済宗天龍寺派の寺院(尼寺)が上がっているとのこと。
今回は行かなかったけれど、厭離庵というところはいいところだそうですよ。
安土桃山流テーマパーク
常寂光寺には、これまで訪れた寺院にはない、華やいだ雰囲気がありますね。
いわば、小倉百人一首に詠われる紅葉をメインにした、安土桃山流のテーマパークって感じでしょうか。
それが時雨亭の近くに展望台です。すごく今風な発想ですよね。
ここから京都を見る景色は素晴らしい。
と感心して、たいていここで常寂光寺の案内は終わるのですがー
じつは、境内の階層はまだ二段上まであるんです。
一段上がると、また展望テラスがあります。
さらに一段上がる。ここも展望テラスなんです。
一階層上がることに微妙な違いを見せる景色は一見の価値アリ、ですよ。
この景色を楽しむ感性は、今の私たちの感性に近いように思います。
つまり、歴史を考えることなく、素直に楽しめるということです。
これで常寂光寺は終わりです。
私は境内の最上層から時雨亭跡まで戻ると、正面には戻らずにそのまま脇を下りる道を選んで竹林の中を歩きました。
本堂のあるニ階層目まで来ると、今度は正面の石段を横切り、反対側の遊歩道を下りていきました(この途中に定家邸跡を示す石碑があったんです)。
一時間半ほどの滞在だったでしょうか。
なかなか楽しめた常寂光寺でした。
今度は紅葉の盛りの時に訪れたいですネェー