カルロス・クライバーの「大地の歌」を聴く

クレンペラーの「大地の歌」の話はしました。第一印象、こうも違うものか、という今更のような驚き。

クレンペラーのときソロのクリスタ・ルートヴィヒが印象的、と言ったが、今回もメゾはクリスタ・ルートヴィヒ。

そういえば、テナーはヴァルデマール・クメント、クレンペラーの時と同じなんですね。と思ったら、当時無名だったのに、ウィーン芸術週間のマーラー特集の中の大切な演奏会の指揮者として白羽の矢が立ったクライバー(演奏時は37才)はお父さんのエーリッヒ(エーリッヒ・クライバー第二次世界大戦前から戦後にかけての一線級の指揮者)のお友達のクレンペラーに教えを乞いに行って、同じソロを勧められたのだとか。

ところが、この演奏で一番目立っているのは、カルロス・クライバーウィーン交響楽団。特にカルロス。若いカルロスだけど、完全に音楽全体を仕切っている印象。当時は超一線級のクリスタ・ルートヴィヒも彼の支配下の一要素。

年齢、時代などなどの環境的要素は( )に入れて、彼の指揮ぶりの特徴は、少なくともコンサートでは、拍子を与えて合図をするだけではなく、彼の身体の動きが音楽を表現していること。その意味ではダンサーと同じだが、ステップを踏まない分、身体の動きが音楽を余すところなく表現している。音楽がなくても、彼の動きを見ていれば音楽がみえてくる、そんな感じがする。

ここからは想像だが、だとすれば、オーケストラからすれば、拍子が与えられないから、彼の動きに乗っかって演奏するしかない。もちろんその際指揮者の音楽把握能力を全面的に信頼できていなければならない。カルロスを信じて彼が感じている音楽をその動きの通りに音にするしかない。

カルロス・クライバーを音の独裁者と言うことが多いが、まさにカルロス・クライバーはオーケストラを奴隷のように全面的に自分に従わせる独裁者なのだ。ただ、そこから生まれる音楽は自由を謳歌する生き生きとしたものである。彼は特定の歌劇場やオーケストラの音楽監督を務めたことはない。こんな指揮をしていれば、確かに客演でオーケストラやオペラ座を一時的に占領するようにしないと、身体が持たないだろう。

まだ若いとはいえ、1967年当時のクライバーの「大地の歌」はマーラーの9番目の交響曲になっている。クレンペラーの演奏のように、オーケストラ伴奏付きの歌曲集ではない。