また、マーラー、今度は6番の交響曲

演奏はクラウディオ・アバドルツェルン音楽祭管弦楽団、2006年夏です。

6番はマーラー交響曲の中ではあまり人気がないらしい。しかし、私は今現在、マーラーの中でこれが1番好きだ。

6番というとはじめからオーケストラが吠えまくるというイメージだが、アバドの演奏は第一楽章ではむしろ抑え気味に感じられる。迫力、緊張感に少しも不足はないが、それでいながら叫びまくらない。2楽章、3楽章、そして、最終楽章に至って、この曲の緻密ていて大胆な構成は余すところなく再現していて、緊張感も増大するのに、どことなく余裕が感じられる。

演奏中も演奏後もアバドはたびたび表情に微笑みをすら浮かべる。ギリギリまで力を出し切っていないということか。

さて、そうなるとこの曲の標題「悲劇的」と矛盾するように思える。一般的には、「悲劇的」の解釈をマーラー個人のことと結びつけようとする。また、ひとりの人の人生だから、ましてやマーラーほどの人物だから「悲劇的」という言葉を反映するエピソードがないということはない。なるほど「悲劇的」だ、と納得もする。

それでも、アバドの微笑みは説明できない。

私的な解釈をすると、この「悲劇的」は個人的なことを言っているのではなく、世紀の転換期にあったオーストリア、ウィーンが辿るであろう悲劇的な運命を表現していると考える。ドイツ統一の盟主の座を失い、国内の10を数える民族の独立の動きに動揺し、産業の発展を求めつつ旧来のヨーロッパの名門ハプスブルク家の伝統も維持し続けなければならない。若いヒトラーが嫌った民族のモザイク模様をなすウィーンの矛盾と、クリムトの「接吻」に現れている少し歪んだバイタリティ、最終楽章の2発のハンマーは機械産業の混入とも受け取れて、この曲の目指すところを象徴している。

まもなくウィーンを離れてニューヨークに向かうマーラー個人はその波に翻弄されているのだろう。その意味では、マーラー個人の悲劇も予感させるものとなっているかも。

オーストリア、あるいはウィーンが巻き込まれた運命はウィーン世紀末という言葉があるくらい、多彩で魅力的である。ある点ではユーモラスでもある。この時代を描いたものを読んだり見たり聞いたりしても、確かに一時代を築いた社会の形が崩壊するのに、例えば、ナチス・ドイツの崩壊ほど無惨さばかりが強調されることはない。オーストリア第一次世界大戦で崩壊して、良かったのかも。ともかくどこかに余韻を残したハプスブルクの崩壊のように思う。マーラーアバドもその辺のことがよく分かっていたんじゃないだろうか。

すてきなウィーン絵巻である。