やっとのことで、ショルティのワルキューレ
デッカによるワグナーの『ニーベルングの指環』全曲録音は事件でした。
それまでもワルターやフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの指揮での計画はあったそうですけど、実現には至らなかったらしい。
時代はステレオ録音の時代になりました。デッカが最新の録音技術で録音するときに白羽の矢を立てたのが、ゲオルク・ショルティ。
当時は、ワルキューレの録音が1962年だから、ショルティ、50才前後、指揮者としては巨匠とは言いにくい、むしろ、若手から中堅といったところ。
なぜショルティ? という感じはあったと思います。なにせ、ショルティがワグナーの聖地バイロイトに登場するのは録音から20年後の1983年、しかも、これ以降、バイロイトには出ていないんです。少なくともワグナーの第一人者という存在ではなかったようです。
それでも、今でもワグナーの「指環」の録音の代表格という地位が揺るぎないほどの名演です。
録音ディレクターのカルショウの人選は確かでしたね。
ショルティはオーストリア=ハンガリー二重帝国時代にブダペスト生まれ。ユダヤ系。
家系には音楽家が多いようで、ショルティもリスト音楽院でピアノを学んでいる。
20代後半にジュネーヴ国際ピアノコンクールで優勝までしているそうで、一流のピアニストだったんですね。
でも、10代の半ばでもう指揮者になる決心をしたそうです。指揮も勉強するんですが、すぐには食べられるようにはなりません。
20前後のころは、ピアノの腕を発揮してブダペスト時代はオペラ・ハウスで歌手の練習の伴奏を務めたこともあったらしい。
オペラ・ハウスでの下積み経験もかなりありそう。
どうやら指揮者として一本立ちするまでは二足の草鞋だったみたい。
先にピアニストとして売れて、ミュンヘンやザルツブルク音楽祭で指揮者としてのチャンスを掴むのは20代後半。
この少し後、30代半ばでデッカはピアニスト、ショルティと契約していたらしい。かなりの青田買いだったのかも。
その後、ドイツのフランクフルト歌劇場の音楽監督になります。
でも、多分、日本で名前が知られるようになったのは、フランクフルト時代に英語圏への進出に成功して、指揮者として名前が出てきてから。
この『指環』の録音の最中にロンドンのコヴェントガーデンの音楽監督になっている。
デッカはもちろんイギリスの会社だから、デッカでの録音とともに世界的な名声を得るようになった感じがしませんか?
ちなみに1972年にイギリスの国籍を取得して、亡くなったのはフランスの地。
やぶ睨みかもしれませんが、ドイツとは一定の距離を置いていたように思います。
これは大事なところかもしれません。
さて、ここまで話してくると、オペラ指揮者かコンサート指揮者との分け方から始めないといけませんね。
でも、ショルティの場合、これまで書いてきた経歴を見ても、この分け方が単純に適応しづらい気がする。
経歴を見ると、純粋なオペラ・ハウス育ちの指揮者とは言い難いですね。でも、オペラ指揮者としての下積みは経験している。
この人で印象に残っている映像があります。メトロノームの速さが完全に頭に入っているらしく、例えば、100なんて空でほぼ正確に再現できるんです。
すごい、と思いました。
だからすごく物静かな人か、というと、彼の話し振りから、超ポジティブ、押しの強い自信家という印象を持ちました。
正直に言って、ショルティのワルキューレ第一幕を聴いて、演奏の問題点など見つけることはできません。
演奏の正確さには多分全く問題はないように思いますし、だからといって、正気のない演奏ではなく、オペラの劇的な緊張感も余すところなく伝えてくれます。
私の勝手な見方ですが、彼の性格を彷彿とさせているように思います。
ともかく、立派な演奏です。歌手は当時のワグナー歌いのオールスターですしね。
『指環』録音のNo.1にショルティを選ぶことでしょう。
ところが、最近、私にとって大変な出来事に出会って、ショルティの演奏の性格の、かなり大切な一端が見えた思いがしました。
今回は相当長くなったので、その話は後にして、この辺で終わりにします。