今日は、ハイティンクの3番です
とりあえず、データから。
コンセルトヘボウ、キャロリン・ワトキンソン(アルト) 1983年Live
アバドの演奏と比較すると、対象的にハイティンクのコントロール下の名演。ハイティンクのマーラーを聴いていると、ときおり違和感のあるテンポの動かし方をするところが印象的で、これはハイティンクのコントロール下である証と言えるように思います。
指揮ぶりはカルロス・クライバー・タイプですね。カルロスと違う点は表現の現し方がクライバーほどではないにしても、拍子の指示が非常に明確であることでしょう。
1983年の演奏ですから、このときは54才くらい。まだまだ身体は動きますから、キビキビしています。
マーラーの複雑な音楽を拍子も表現も余すところなく指揮してる。
凄い運動神経だ。
オーケストラもしっかりとハイティンクの求める音楽を必死に奏でようとし、成功している。
ここでは、ハイティンクが主役ですね。
やっぱりマーラー、今度は巨人。アバドです。
今回の交響曲第一番「巨人」の演奏もルツェルン音楽祭でのLiveです。
2009年の演奏です。
アバドは2000年に胃癌にかかって復活したわけですが、こんな大事件を知っていると、演奏とも絡めたくなります。
本当は必要ないことだと思いますが。
相変わらずアバド自身は程よく力が抜けて、オーケストラの演奏者ばかりが緊張感を持って演奏している印象です。
たぶんこの辺のことが原因だと想像しますが、ピーンと張りつめた演奏ですが、押し付けがましさが感じられません。
この曲はマーラーが指揮者としてのキャリアを始めたばかりの頃の20代後半に作られました。
マーラーはドイツの文学作品を音楽の発想と絡めたようですが、この曲もジャン・パウルというドイツ・ロマン派の作家の小説「巨人」に倣って作曲したそうですが、最初交響詩としていたのに、第二楽章を外して4楽章の交響曲にしました。
後年の複雑な構成からすると構成がはっきりとまとまっているので、交響曲は納得です。
演奏しながら出来上がっていくようなLive感に溢れた演奏なのに、ここでも特に音楽の輪郭がくっきりと浮かび上がってきています。
アバドがオーケストラの中に溶け込んでいるようで、舞台にははっきりとアバドが見えている、そんな演奏です。
ワルキューレ第一幕中編
ニーベルングの指環はラインの黄金から造られた指環をめぐる神々族と小人族{ニーベルング族)と巨人族の三つ巴の争いの物語です。
ライン川の底に眠るラインの黄金が小人族のアルベリヒに奪われるところから、物語が動き出します。
それをワルハラ城の建設の代金に当てようと神々族のウォータンはアルベリヒの黄金を騙しとります。
その時アルベリヒは黄金から造った指環に、「この指環を手にする者は世界を支配する力をうるが、すべての愛から見放される、誰からも愛されない」という呪いをかける。
無事ウォータンは巨人族に黄金で代金を払うが指環まで奪われます。
ここまでが第一夜の「ラインの黄金」。
さて、巨人族ファフナーはドラゴンに姿を変えて森の奥深くで指環を守っている。
再び世界を支配したい神々族の長ウォータンは人間の女に自分の子供を作らせて指環を奪還を目論む。
その英雄ジークフリートが生まれるまでのエピソードを描いているのが第二夜の「ワルキューレ」。
英雄ジークフリートは成長してファフナーから指環を奪う。その後で出会った、同じウォータンの娘ブリュンヒルデと結婚。つまり、2人は姉と弟、しかもブリュンヒルデはジークフリートが無事に産まれるお膳立てをした人物でした。
ここまでが、第三夜の「ジークフリート」。
そして、最終日、第四夜の「神々の黄昏」。
いま指環はジークフリートの玉ブリュンヒルデの手にある。自分と同じく父のアルベリヒに指環なら奪還を託されたハーゲンの奸計にあってジークフリートは指環を、妻のブリュンヒルデと共に奪われる。ジークフリートはその時殺される。
しかし、ハーゲンの奸計に気づいたブリュンヒルデがハーゲンから指環を奪い返し、ライン川に戻し、自らも夫ジークフリートの遺体を焼く炎の中に身を投じる。
その炎がひときわ大きくなり、ワルハラ城を焼き落とす。
まずは全部で四つのオペラから成る「ニーベルングの指環」の全体の流れでした。
ということで、これから「ワルキューレ」の話ですが、長くなったので、次回に続きます。
今日はワルキューレ第一幕前編、気分を変えてワグナー
いつもマーラーを聴いているわけではありません。
先日、車の中でイ・ムジチの四季を聴いて、改めてその良さを感じましたが、これはまた別の機会に。
ワグナーも聴きました。例のショルティのDecca版。1960年の録音で、ジークムントはジェームス・キング、ジークリンデはレジーナ・クレスピン、フンディングがゴットリープ・フリック。オーケストラはもちろんウィーン・フィルです。
そう、もう皆さんはお分かりですね。テナーとソプラノとバスの3人しか登場しないんですから、聴いたのは楽劇「ワルキューレ」の第一幕だけです。
ワグナーの「ニーベルングの指環」を一気に聴こうと思うと、時間もかかって大変だけど、最近よく見かけるようになったコンサート・ピースとしてワルキューレの第一幕を聴くのはいいですよ。
2、3年前ペトレンコとバイエルン放送交響楽団、N響も数年前にやってますよね。
何より有名なのは1963年のウィーン芸術週間でのクナッパーツブッシュとウィーン・フィル、テナーはフリッツ・ウール、ソプラノはクレア・ワトソンの第一幕。これは大好きです。
オペラ・タイプの指揮vsコンサート・タイプの指揮
こんなふうに分類して聴くのも一興かも。
ちなみに、意外に思われる向きもあるかと思いますが、20世紀後半の二大巨頭、ベームはコンサートタイプ、カラヤンはオペラタイプに、私は、入れています。
さて、今日聴いたショルティですが、前に
マーラーの8番で、これはオペラタイプだ、と書いたのですが、このワルキューレ第一幕のショルティはコンサートタイプに分類しましょう。
ショルティという指揮者、今主流のコンサートタイプ、あるいは、コンクールタイプの指揮者と比べるとオペラタイプに聴こえますが、昭和的、って、昭和で世界を語るなと叱られそうですが、ともかく昭和的にはコンサートタイプに聴こえます。
ちなみに、千秋真一はコンサートタイプでしょう、多分。
ちょっと長くなりました。次回に回しましょう。
アバドのマーラー、今日は3番
マーラー:交響曲第3番ニ短調
アンナ・ラーション(メゾ・ソプラノ)/アルノルト・シェーンベルク合唱団/テルツ少年合唱団
クラウディオ・アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団
2007年8月19日(ライヴ)/ルツェルン、カルチャー&コンヴェンション・センター
アバドの指揮は以前から不思議に思っていた。アバドが何をやっているのかが分からないのだ。指揮ぶりもまるで何をどう振っているのか、分からないことが度々だ。
それでいてキチンとした音楽に仕上げる。
アバドの指揮なら、何を聴いてもソツがない、そんな印象を持つほどに。あんなに指揮ぶりがぎこちないのに。
今度、アバドという指揮者について書いてあるものをいくつか読んで、あっ、と合点のいった表現に出会った。
リハーサルでアバドはあまり話さないらしい。言うことといったら、周囲の音をよく聴いて、とかなんとか、こんな言葉だったらしい。
そうなんです、このマーラー、ヨーロッパあちこちのオーケストラで見たソリストが結集したようなルツェルン音楽祭のオーケストラのメンバーが顔を真っ赤にして演奏しているのに、アバドは案外とポーカーフェイス、時折り笑みを浮かべたりする。こんなにまでこれほどの演奏者を本気にさせているところがアバドのアバドたる所以、なのだと知った。
3番には大曲の割に緻密な室内楽的部分の結集、といった印象がある。それを横の繋がりで音にしていく演奏者の大元締めなのではないか。
6番でも感じたが、アバドはあまり汗をかいていないのだ。そんなことをどんな風にやっているのか、がやっぱりアバドの指揮の仕方からは読み取れない。
3番とか6番とか、無数のモチーフの絡み合いが魅力の曲では、アバドの良さが特に目立ってくる。
最後に、このコンサートでは、演奏が終わってから、拍手や歓声が起こらない静寂の時がしばらく続く。アバドは指揮棒を下ろした時、ようやくパラパラと拍手が始まり、やがていつ終わるとも知らないアプローズにホールが包まれる。
周りを興奮させて、本人は案外と冷静。
ちょっとアバドがみえてきたように思う。
いよいよ老舗、バーンスタインの3番です。
オーケストラはウィーン・フィルです。Liveです。
この曲は世界最長の交響曲ということで、ギネスに載った、という話を聞きました。
本当かどうかはさておき、確かに長い交響曲です。
それに加えてバーンスタインの演奏は緩徐部分がともかく遅い。
などと思って演奏時間を調べると、アバドやハイティンクがだいたい101分に対して、バーンスタインは103分、その差2分程度なんです。
そんなでもないんです。
でも、極端なことをいうと、緩徐部分はクレンペラーの7番くらい遅く感じました。
私、factは参考程度で、自分の感覚を信じる方なんで。あくまでもバーンスタインは遅い、です。
4楽章は白日で、モチーフの重なり合いを楽しむどころか、前のモチーフを忘れてしまうほどに遅いので、重なってこないんです。
それでも終盤になって、バラついたモチーフのパッチワークがまとまってくると演奏もまとまってきました。終わった瞬間に始まった拍手が、終わりを待ちきれなかったぞ、とばかりに被り気味に思えたのは私だけ?
さて、何年、何十年間に何度となく演奏してきたバーンスタインに敬意を払いつつ、自分の受けた印象が正しいかどうか、これからも注意していきたいと思います。
また、マーラー、今度は6番の交響曲
演奏はクラウディオ・アバド、ルツェルン音楽祭管弦楽団、2006年夏です。
6番はマーラーの交響曲の中ではあまり人気がないらしい。しかし、私は今現在、マーラーの中でこれが1番好きだ。
6番というとはじめからオーケストラが吠えまくるというイメージだが、アバドの演奏は第一楽章ではむしろ抑え気味に感じられる。迫力、緊張感に少しも不足はないが、それでいながら叫びまくらない。2楽章、3楽章、そして、最終楽章に至って、この曲の緻密ていて大胆な構成は余すところなく再現していて、緊張感も増大するのに、どことなく余裕が感じられる。
演奏中も演奏後もアバドはたびたび表情に微笑みをすら浮かべる。ギリギリまで力を出し切っていないということか。
さて、そうなるとこの曲の標題「悲劇的」と矛盾するように思える。一般的には、「悲劇的」の解釈をマーラー個人のことと結びつけようとする。また、ひとりの人の人生だから、ましてやマーラーほどの人物だから「悲劇的」という言葉を反映するエピソードがないということはない。なるほど「悲劇的」だ、と納得もする。
それでも、アバドの微笑みは説明できない。
私的な解釈をすると、この「悲劇的」は個人的なことを言っているのではなく、世紀の転換期にあったオーストリア、ウィーンが辿るであろう悲劇的な運命を表現していると考える。ドイツ統一の盟主の座を失い、国内の10を数える民族の独立の動きに動揺し、産業の発展を求めつつ旧来のヨーロッパの名門ハプスブルク家の伝統も維持し続けなければならない。若いヒトラーが嫌った民族のモザイク模様をなすウィーンの矛盾と、クリムトの「接吻」に現れている少し歪んだバイタリティ、最終楽章の2発のハンマーは機械産業の混入とも受け取れて、この曲の目指すところを象徴している。
まもなくウィーンを離れてニューヨークに向かうマーラー個人はその波に翻弄されているのだろう。その意味では、マーラー個人の悲劇も予感させるものとなっているかも。
オーストリア、あるいはウィーンが巻き込まれた運命はウィーン世紀末という言葉があるくらい、多彩で魅力的である。ある点ではユーモラスでもある。この時代を描いたものを読んだり見たり聞いたりしても、確かに一時代を築いた社会の形が崩壊するのに、例えば、ナチス・ドイツの崩壊ほど無惨さばかりが強調されることはない。オーストリアは第一次世界大戦で崩壊して、良かったのかも。ともかくどこかに余韻を残したハプスブルクの崩壊のように思う。マーラーもアバドもその辺のことがよく分かっていたんじゃないだろうか。
すてきなウィーン絵巻である。